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16 あなたが決めてください
【第三章】
「……それは、つまり……」
困惑に満ちた目を丸くした芳川は呟き、だが、その言葉を続けることはなかった。
司は今一度「申し訳ありません」と頭を下げる。芳川はすぐに「顔をあげてください」と気遣ってくれた。
司は、真紀人の自宅へ向かう前に株式会社ラビットウィングを訪れている。
芳川に退職の意向を伝えるためだ。
忙しいにも関わらず時間をとってくれた芳川は、会議室の一部屋で司の話を聞いてくれた。
司は全て打ち明けた。高校時代から司が抱いていた感情。今の真紀人への想い、全てを。
「鶴居さんは代表に恋愛感情を、抱いていた」
「……はい。隠していてごめんなさい」
司は視線を下げて、芳川の言葉を認めた。
彼は寝耳に水と言った様子で、顎先に指を当てる。
「確かに。そうなってくると事情が変わりますね」
「そうですよね」
雇用主へあらぬ感情を抱いているのだ。それを隠して仕事を引き受けてしまった。
とんだ裏切り行為である。司はもう一度、丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。これ以上仕事を続けることはできません」
「本当に高校時代から今まで代表を好きだったんですか?」
だがどういうわけか芳川が司の言葉を無視して続けるので、司は顔を上げる。
さすがの芳川もこの展開が珍しいらしい。「九年間ずっと?」と若者の色恋沙汰に興味津々とばかりに切り込んでくる。
司は正直に首肯した。
「はい……」
「代表は記憶喪失だと言っているのに?」
「はい、すみません……」
司は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、こくんと頷いた。
息を吸って、吐く。
司は心のままに告げた。
「記憶があってもなくても真紀人先輩は変わりませんから」
芳川は啞然と言った様子で沈黙していた。ああ、困らせてしまっている。その静寂に耐えられず、また一度謝罪しようと口を開いたところで、芳川が、
「なるほど。どうしましょうか」
と呟いた。
「……急で申し訳ありません」
「まぁ、急ではありますね」
「こんな形で仕事を辞めることになってしまい、ただただ申し訳ないです」
「仕事? ああ」
するとなぜなのか、芳川は妙な反応を見せた。
「仕事は、はい。分かりました」
「え?」
何を『分かった』と言うのか芳川はあっさり告げる。
え。分かったって、何? ……あれ? 結局どうなってる?
疑問符で頭が満ちる司の一方、「うーん」と悩ましげだった芳川が突然閃いた顔をした。
「ではこうしましょう」
「え」
「鶴居さんは部屋の前で待っていてください」
「はい?」
「行きますよ」
え、どこに?
芳川が問答無用で歩き出すものだから司も慌てて追いかける。
部屋を出た芳川はエレベーターホールへ向かった。ちょうど五階へやってきていたエレベーターに乗り込んだ芳川が、上階のボタンを押す。
扉が閉まる。エレベーターは上昇するが、司はその速度に追いつけず、動揺に塗れた声を出した。
「えっ、待つって?」
「代表のお部屋へ向かいますから、その部屋の前で待っていてください」
今、真紀人の元へ向かっているらしい。
司の体に一気に緊張が走る。思わず唾を飲み込むも、司はすぐに告げる。
「あの、退職のご挨拶は俺からもします」
「いえいえ、その必要はありません」
「はい?」
芳川は薄く微笑みを浮かべて、横顔で司を見下ろした。
「ほら、代表はあなたを好きですから」
「あ、はい……え、はい?」
確かに今の真紀人は司をタイプだと言ってくれる。
だがそれとこれとは話が別である。
司が仕事を辞めて、会うこともなくなれば、きっとその恋も薄れる。司と違って真紀人の恋は始まったばかりなのだ。
今ならまだ取り返しがつく。今こそ離れるべきだ。
そのための別れの言葉はきっちり自分から言いたい。
だが芳川はそれを了承しなかった。
「とにかく扉の前にいればいいんです」
「な、なんで?」
「すぐに分かります。それからどうするかはあなたが決めてください」
「え?」
司は全く理解が追いつかなかった。
だが無機質なエレベーターは司の内心を慮ることなどなく、その階へ運んでしまう。
心があるはずの芳川も容赦なく歩み出す。
何がどうなっている?
答えを見つける前に目的地へ着いた。
社長室だ。
ここには真紀人がいる。
「いいですか、ここにいてください」
芳川は囁き声で言った。気圧された司は、恐る恐る無言で頷く。
芳川は深く頷き、直ぐに扉をノックする。数秒待ち、芳川は勝手に扉を開いた。
司は思わず息を止める。するとなぜなのか。芳川は扉をわずかに開いたまま、社長室へ入って行った。
これでは中の会話が聞こえてしまう。
でも、芳川は最後にこちらへ視線をやったからこの隙間は彼の意図したものだ。
……なぜ?
「代表」
芳川が真紀人へ話しかけた。司は手で口元を覆う。
一体、何を語るつもりなのか。
すると、司の思った通りだった。
「ダメだ……」
真紀人の独り言じみた声が聞こえてくる。
やはり聞こえてくる。これでは会話が筒抜けた。
どうしよう。
「全然司がカード使ってくんねぇ……」
「水野代表」
「何」
「一体いつまでこうしているつもりなのですか?」
てっきり司の退職の報告をすると思ったのに、芳川が一番初めに告げたのはそれではなかった。
むしろ司にとって全く意味の分からない発言だ。『いつまで』とは……どういう意味?
混乱する司の一方で、彼の声は全て理解しているみたいに冷静だった。
「俺だって分かんねぇよ」
真紀人がそう答える。その瞬間、芳川の大袈裟なまでの大きいため息が聞こえる。
真紀人は悩ましげに言った。
「いつまでこうしてんだろ。どうすんだこれ」
「さっさと言えばいいじゃないですか」
そうしてはっきりと芳川は告げた。
司に衝撃を齎す言葉を。
「本当は昔から鶴居さんが好きなのだと。記憶を失ってなどいない、むしろ事故で記憶をなくしてから一番初めに思い出したのはあなたのことです、と」
司は手のひらを口元に当てたまま目を見開いている。
口を覆わなくても声なんか出てこない。
何も、言えない。
だって。
……え?
「言えるもんなら俺だってそうしたい」
真紀人の声がする。
司は、唇を噛み締めた。
まだ理解ができないのだ。
「言えばいいじゃないですか」
「俺は司の記憶を無くしてんだぞ」
「そういうことにしたのはあなたでしょう。本当に便利な記憶喪失ですね」
芳川は呆れたように呟き、また声量を強める。
「あなたが記憶障害を負ったことは真実ですけれど、一番初めに思い出したのは鶴居さんなのに」
「……なんか声デカくね?」
真紀人は不思議そうに言った。
芳川は真紀人の指摘を無視して、淡々と続ける。
「鶴居さんの会社が倒産したと聞き、代表が突然、『俺は死んだんだ』と言い出した時は驚きました」
「あー」
唸る声はここに司がいることに全く気付いていない。
後悔に満ち満ちたような声とは真逆で、芳川ははっきりと告げた。
「『俺は死んだんだ。そして生まれた。生まれ変わったから司に会う』」
芳川の声音が変わる。
また呆れた口調になった。
「そう言って、私を鶴居さんの元へ向かわせたんでしょう」
司は全てを聞いていた。
そんな、まさか。
「私は『話しかけるきっかけがありません、私に鶴居さんへ突然話しかける不審者になれと言うんですか』と反対したのに、代表が『傘を落とせばあいつは必ず拾う。持ってけ』と雨も降っていないのに傘を押し付けてきたんです」
「うまくいったじゃねぇか」
「うまくいって面倒な嘘をついたからこんな複雑になっているんでしょう」
真紀人が黙り込む。
追撃のように芳川が告げる。
「鶴居さんは代表を嫌っておられなかった。ならもう本当は記憶など失ってはいないと正直に告げればいいじゃないですか」
「……でもあいつは俺が忘れたと思って、高校の時の話とかしてくれたんだ」
弱々しく真紀人が反論する。真紀人の顔すら見ていないのにこちらの胸が締め付けられるほど、力のない弱った声だった。
「今更嘘でしたとか言えるかよ。俺は本当に、司が嫌いになった俺なんか全部なかったことにして、もっかい司と仲良くなりたかったんだ」
「それなのに鶴居さんは代表を嫌っていなかった」
「絶対嫌われてると思ってたのに……」
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