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18 1億あげるから
今度は真紀人が泣きそうな顔をする。司は真紀人の腕のスーツを少しだけ握った。
とにかく彼の一部に触れたくて仕方なかったのだ。
「先輩の言う通り、俺って、鈍感なのかもしれません。先輩が演技してること全然気付かなかったし」
「……騙してごめん」
「……でもまだ、結局先輩が何をしたいのかよく分かってないんです」
司は笑顔を浮かべ続けた。真紀人が心底申し訳なさそうにしているのを、自然と、慰めたい気持ちになったから。
「俺と会いたかったってことですか? 好かれたかったってこと?」
「合ってるけど、それだけじゃない」
真紀人も腹を括ったらしい。
一度息を吐いたのが分かる。それから数秒おいて、
「俺は」
と力強く切り出した。
「俺の周りにいた奴らのせいで司が嫌な目に遭って、司に会わす顔が無くなった。嫌われたと思ったんだ」
真紀人が続けて「去年事故に遭った時」と呟く。
彼は語ろうとしている。だから司も唇を引き結ぶ。真紀人の真剣な瞳を、ただ見つめる。
「記憶と言語の障害になって、覚えてることを一つ一つ書き出していった」
事故の影響で頭に障害を負ったらしい。
真紀人は、ガタガタに揺れた字で、一番初めにそれを紡いだ。
「一番初めに紙に書いたのは『司』だった」
司はまた鼻の奥に強烈な痛みを感じる。
涙が出そうになるのをグッと堪えた。
「司と離れてから司を忘れたことなんかなかったんだ。何年もの間、会いたかったけれど、俺のせいで司をまた傷つけるのが怖くて……司が幸せに暮らしてるなら俺はもう司の人生に関われなくてもいいと思っていた。だけど、そんなわけない。そんなわけなかったんだ」
真紀人は自分の右手を見下ろした。開いた指を、ペンを握る形にする。
「死ぬ前にもう一度、どうしても会いたくなってしまった。だから、司の会社が倒産したと聞いて、芳川さんの協力で強引に司に接触したんだ。嫌われた俺をなかったことにしてもう一度始めたいと思ったから」
真紀人が唇を閉じた。司は息を吸って、吐息と共に呟いた。
「俺は、真紀人先輩を嫌いになったことなんて一度もない」
「うん」
真紀人は深く頷き、目元を歪めるような不器用な笑みを浮かべる。
「それを聞いて後悔した。だったら俺のまま会えばよかった」
「どんな先輩でも先輩です。嫌うわけないじゃないですか」
「でもどうだろう。本当に嫌われるかも」
「え?」
妙に真紀人の口調が断定的だったので司は首を傾げる。
真紀人の目に覚悟が灯っている。彼ははっきりと、
「俺がしたかったことは、会うことだけじゃない」
と司を見下ろした。
ずっと背の高い人だとは覚えていたがこうして見下ろされると更に際立つ。スラリとした体型に綺麗な顔の、王子様みたいな別世界の人。雑誌や画面越しだと遠く感じていた。
けれど本当は真紀人も司を見てくれていたのだ。
なら、司も真紀人を別世界の人だと思いたくない。
今こうして同じ場所にいる彼と向き合いたい。
「先輩が望んでることって何ですか?」
真紀人は少し怯えた顔をした。唾を飲み込んだのが喉仏の動きで分かる。
「過去の俺を殺して新しい自分になってでも、司に好かれたかった」
それでも打ち明けてくれるから、司も彼の言葉へ真剣に耳を傾ける。
「司に恋愛の対象として見てほしかった。司を甘やかして、触りたかった。何でもするから俺を見てほしい。1億あげるから、俺とキスしてほしい」
彼の言葉に自分の心がどう動くかを、素直な心で見つめる。
「情けなくてごめん」
「……先輩、1億って用意するのにどれくらい時間かかります?」
「え?」
真紀人は驚いたように目を丸くした。僅かに動揺しつつも答える。
「銀行行けば……」
「時間かかりますね。なら要りません」
真紀人は唇を薄く開いて何も言葉を返さなかった。
一瞬で真紀人の心が不安に乗っ取られたのがわかる。司は一瞬でも不安にさせたくない。
司は真紀人の頬に手を伸ばした。
「今キスしてほしいです」
口にしてから、自分が必死であることに気付く。
必死に真紀人と向き合っている。不思議な心地だった。あれほど言えなかった気持ちが、真紀人に応えたいとその意思だけで簡単に口にできるのだ。
「俺こんなに強欲になったの、初めてかも。先輩といたら素直が移っちゃうんです」
真紀人はどこか見惚れるように司を見つめていた。
その長い睫毛が揺れる。真紀人が瞬きをしたのだ。それすらスローモーションに見えるほど彼の動きに全神経が集中している。
真紀人が腕を上げて、司がそうしているように、司の頬に手のひらを当てた。
すっと二人の距離が近付いた。すぐ唇の触れる距離まで顔が近づいてくる。
けれど真紀人は今にも唇の重なる手前で、躊躇ったように一瞬だけ止まった。
だからキスをしたのは司だ。
司は背伸びをしてその唇に自分のそれを押し付ける。
真紀人が距離を近づけてくれて、司が距離をゼロにする。二人で完成されたキスは、ただ触れるだけの口付けなのに、信じられないほど心が満たされる。
見つめ合いながらもまた少しだけ距離が出来る。
真紀人は開口一番に言った。
「司、好きだ」
真紀人の顔にはもう不安の気配はなかった。
ただただ幸せそうに目を細めている。
「ずっと好きなんだ」
「俺もです」
真紀人が無邪気な笑みを見せた。開いた口を唇を噛むように一度閉じて、また告げる。
「俺と付き合ってください。恋人になってほしい」
「はい」
次の瞬間には、司は真紀人に抱きしめられている。
優しくも力強い抱擁に覆われる。耳元で真紀人が囁いた。それを司は聞いている。恋に震える心で。
「ありがとう」
溢れる感情を噛み締めるような、渾身の言葉だった。
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