桜吹雪、刻重なりも、君は褪せず。

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 今日も今日とて、沢山の人、人ならざる者、動物達が、意気揚々とそこへ訪れる。  まあ、それもそのはずだ。だって今は、世間では『お花見』の季節なんだから。  人肌恋し刻を乗り越えた先には、生命の輝きを感じる刻が、必ずやってくる。だからこの世の者は皆、そのありがたみを感じるために、こうやって毎年ここへ来るのかもしれないね。  それはある日のことだ。大勢の人が集まる場所から少し離れた場所にそびえ立つ桜の木の前に、一人の少女がやって来たのは。 「一人お花見、最高だわ!」  少女は自らが敷いたシートの上に靴を脱いで座ると、大きく伸びをしながら、その桜の木に背中を預けるようにしてそう言った。  ふふっ。そんな無邪気な少女を見て、思わず、笑ってしまう。そうだ。たまにだが、この少女のように、敢えて一人でお花見を楽しむ者もいるものだ。一人でも家族や友人と一緒でも、花びらが舞うこの地で過ごす一時は、何にも代え難いほど心穏やかに過ごせるのではないだろうか?  ならば、心行くまでここに居れば良い。そう思いながら、少女のことを見つめる。  少女は、優しく心地よい春風に吹かれながら、少し乱れた艶の良い黒髪を耳にかける。そして静かに瞼を閉じると、再びその形の綺麗な口を開いた。 「……、うーん、どうしてかな。なんだろう。この感じ……」  少女はそう呟くと唐突に何を思ったのか、桜の木を見上げた。 「私、ただお一人様に憧れて、ここに来ただけなんだけどな。でもそれなら、近所の公園でお花見するだけでも良かったのに……」  その時初めて、少女と目が合う。美しい黒髪と華奢な体。そのことから、少女が綺麗な人であることは察していた。しかし、いざその顔を見ると、どうしても……。少女の人となりを表したような透き通った茶色の瞳。真っ直ぐに純粋に見つめてくるその瞳に耐え切れず、思わず目を逸らす。……最初に少女を見つめたのは、こちらなのだけれども。  少女は立ち上がると、幹に左手を添え、こつんとおでこを当てた。そして何かを思案するように、しばらく少女はそうしていた。  こちらは、というと、少女が擦り寄せて来るおでこや手の感触、そしてその吐息がどこかくすぐったく感じる。本来はあり得ないのだが、人間が恥ずかしい時に体温が急激に上がってくるような、そんな不思議な感覚に陥ってしまいそうだ。  思えば、ずっと前にも、こんなことがあった。  ずっと前とは、どれくらい前か。年数をわざわざ数えていないので、いつの時代のことかはわからない。もしかしたら、ずっと前ではなく最近のことなのかもしれない。  しかし、確かに覚えている。あの頃感じた、焦燥なのか妄想なのか、はたまたただ陽気に当てられただけなのか。勘違いや思い違いだったのか、はっきりしないあの感情を。そう、確かに覚えている。  そもそも、今まで忘れたこと等なかった。 「…………」  風に煽られ、桃色の花びら達が散る中、まだ少女はその木に向き合っていた。恐らく少女は、自分の中に眠る『何か』を呼び起こそうとしているのかもしれない。そんな姿を見て、思わず愛おしさに頬が緩んだ。  ーー何故、少女を見た瞬間に、気づかなかったのだろう。嗚呼、それは当たり前か。だって自分は『君』との出会いが、最近か昔のことかわからなくなってしまっていたのだから。  長い時間を生きるということは、ときとして残酷だね。あまりに長く生きたせいで、人間の命が短いことを忘れてしまっていた。『君』がいなくなったとき、あんなにも思い知ったはずだというのに。  『君』への感情は一切忘れていないのに、『君』を失ったときの感情は忘れていたとは、なんという皮肉だ。  少女ーー『君』のつむじを見つめながら、思わず自嘲気味に笑ってしまう。『君』に再び出会えたことは嬉しいのに、大切なことを見失っていた自分が、不甲斐ない。  そんな自分が、再会を喜んで良いのだろうか。そう思っていると、ようやく少女は顔を上げた。 「あ、あれ……?」  そう呟く少女の頬には、涙がつたっていた。 「な、何? 今の……。それに、なんで、なんで私泣いて……」  少女自身も泣いてしまったことに驚いているのか、慌てて涙を拭う。しかし、拭っても拭っても、少女の大きな瞳から流れる滴が止まることはなかった。 「もう、どうして……」  少女は鼻を啜ると、再び額を幹に当てる。先程の何かを探している雰囲気とは違い、少女はもう『それ』に気づいているようだった。 「……ずっと、なんでここに来なきゃって思ったのか、わからなかったけど……、私、前にここに来たこと、あったのかな……。覚えてないけど」  その通りだよ、なんて、図々しく言うこと等出来ない。でも少女は遠い日に、確かに『君』として会いに来てくれていた。  『君』は当時としてもかなり身分の高い女性で、こっそりお屋敷を抜け出してはここに来て、色々な話をしてくれた。最初は、なんで当たり障りのない桜の木をわざわざ選んだのかと思っていたが、いつしか『君』と過ごす時間は、何にも代え難いものになっていた。人々が、心穏やかに桜を見上げ、美味しいものを食べ、そして「幸せだ」と思うこの季節のように。 「……うーん。やっぱり思い出せないなぁ。さっきなんか感じたんだけど。……ま、いっか」  ようやく涙がおさまったのか、少女は勢いつけて座り直す。なびいた綺麗な黒髪から、やはり『君』と思しき香りが、優しく鼻腔をくすぐる。 「……私、ここ好きだな。ふふっ。何度だってまた来るし、それに……、もう大事な場所だから」  それはまるでこちらに言い聞かせるような、儚くも力強い声音だった。  ーー……っ。  今度はこちらが、泣く番のようだ。  声を出さないように、息を殺すように、涙を流した。本当は涙は流れていないが、そんなことどうでも良い。ただ少女の言葉が、嬉しかったのだ。  ーー『私、ここ好きよ。こんなに大切だと思ったこと、生まれて初めて』。  『君』も初めてここへ訪れたとき、そう言っていた。好きだと言ってくれたのは、『君』が初めてだったのだ。  喜んで良いのだろうか? こんな自分が幸福を感じて良いのだろうか?  ……そんなこと、気にしたところでどうしようもないのだろう。だってもう自分はこんなにも、その一つの生命に惹かれているのだから。  少女が、優しい手つきでお重を広げる。幸せそうに色とりどりの食べ物を口に運ぶその姿に見惚れ、いつしか涙は止まっていた。そして少女のひだまりのような笑顔が、あの頃恋い焦がれていた『君』と重なったーー、そんな気がした。  今日も今日とて、沢山の人、人ならざる者、動物達が、意気揚々とそこへ訪れる。  まあ、それもそのはずだ。だって今は、世間では『お花見』の季節なんだから。  君恋し刻を乗り越えた先には、幾つもの奇跡のおかげで、再び大切な人に出会える。だからどんな戸惑いや葛藤が生まれても、自分の心は……。  たった一人だけの存在を、求めてしまうのだろうね。 end.
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