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第7 章 サポート
大翔君は頭にたんこぶを作っただけで大きな怪我はなかった。彼は睡魔に襲われて、それで無意識のうちに眠ってしまったらしかった。それで椅子から転げ落ち、床に頭を強く打ちつけたのだった。私が寝室で聞いた音はそれだったのだ。
大翔君は私がどんな強くゆすっても起きなかった。それで私はもしかしたら脳内出血でも起こしたんじゃないかと心配になって救急車を呼ぼうとした時だった。大翔君はやっと意識を取り戻して、と言うか目覚めて、そして私のことを見た。
「やあ、葵」
「大丈夫?」
「僕、どうしてた?」
「大翔君、床に倒れてたんだよ」
「え、どうして?」
「椅子から転げ落ちたんだよ」
「そうなの?」
「びっくりしたよ。すごい音がしたから駆けつけて来たら、大翔君倒れてるんだもの」
「そうなんだ」
「声を何度も掛けたんだけど、意識を失ったみたいに全然起きなく」
「意識を失ってたの?」
「ううん、眠ってた」
「寝てたんだ。知らないうちに」
「うん。よっぽど眠かったんだよ」
「うん」
「無理したんだよ」
「うん」
「もっと身体を大事にして」
「うん」
「大翔君、身体壊しちゃうよ」
「でも、ノルマがあるから」
「だって入院するようになったら絵なんて描けないよ」
「それはそうだけど」
「高田さんに相談しようよ」
「でも無理だと思うよ」
「言ってみる前から無理だなんて」
「だって本当に期限が迫ってるみたいなんだよ。もし僕が出来ないってなったら図鑑にはイラストじゃなくて写真が使われてしまうかもしれない。そうなったら仕事がなくなっちゃうよ」
「仕事も大事だけど、大翔君の身体の方がもっと大事だよ」
「うん」
「だから一応高田さんには相談してみて」
「ダメだと思うけどなあ。でも一応話してみるか」
「うん。そうして」
私は彼の話しっぷりから、ノルマを下げてもらうことはまず無理だとわかった。ではどうしたらいいのだろうか。その答えは見つからずにいた。大翔君には今夜はこのまま寝てもらうことにした。そして明日高田さんに電話で相談してもらって、それでどうするかを考えようということになった。
大翔君を寝室のベッドに寝かせると、私は変に目が冴えてしまって1 人リビングでどうしたら大翔君が無理せずイラストの仕事が出来るかを考えていた。それには今の図鑑の仕事を辞めるのが一番だと思った。でもそうすると収入はぐっと下がることが予想出来た。図鑑の仕事は安定していたし、それに単価の高い美味しい仕事だった。いや、だったはずである。それがノルマを宣告された時から過激な労働になってしまった。大翔君は寝る暇も惜しむくらいそれに集中しなければそれに応えられないようになってしまった。
もしその図鑑の仕事を断れば、次にどんな仕事が来るかはわからない。いや、仕事をくれるかどうかもわからなかった。せっかく編者があれこれ手を回してくれてやっと請負うことが出来るようになった仕事だった。それをこちらの都合で断ってしまったらやっぱり編者にそっぽを向かれてしまうだろうと思った。すると私がまた外に仕事に出て、彼を支えなければならないだろうと思った。ううん。そんなことは私にとってたやすいことだった。そうではなく、彼がまた仕事にあふれてしまって、彼のプライドが傷ついたり、やる気が削がれることが心配だった。彼がこの仕事で手にした物は単なる安定した収入だけではなかった。勿論それも大きなものだったが、それ以上に大事なものは彼の人生に対する喜びだった。生きてることの素晴らしさだった。だから私はそれを絶対に守らなければいけないと思った。
私はそう思うとそれから書斎に向かった。そして机の上のスタンドを点けてそこに座り大きく深呼吸をすると、彼が使っていたペンを握った。私は彼のイラストの大ファンだった。そして誰よりも長く、そして誰よりも近くで彼のイラストを見続けて来た。そしてこれは内緒の話だったが、私は幼少の頃からの夢が漫画家だった。それでイラストの上手さには自信があった。たいていの絵ならそれを見たそばからまるっきりそっくり真似て描くことが出来た。勿論それは大翔君の絵も同じだった。私は彼の絵に似せて彼が進めていた蝶の絵を次々と描き上げて行った。
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