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第3章 流木の絵
僕がイラストレーターになったきっかけは本当に他愛ないことだった。大学を卒業して3年ぐらい経った頃だろうか。僕は定職に就いていなかった。いや、就けなかった。それでコンビニでアルバイトをしながらなんとか生活をしていた。しかし、一人前に彼女はいた。彼女とは予備校からの知り合いで、なんとなく付き合っていたような関係だった。彼女は大学を卒業するとアパレル関係の会社に就職した。それで僕は彼女の収入に助けられながらミュージシャンを夢見ていた。
そう、僕が目指していたのはミュージシャンだった。大学のサークルがきっかけで音楽に取りつかれた僕はあちこちのライブハウスに出演しまくって、自主製作のCDを売っていた。そしていつかオリジナルの曲が当たって世界へ飛び出すんだと息巻いていた。
ところがある日、葵、これは僕の彼女の名前だけど、その葵を連れて近所の河原に花見に行った時にその後の僕たちの運命を決めるような出来事が訪れたのだった。
「大翔(ひろと)君、そうやっていつもノートとペンを持ってるね」
「作曲のためだって知ってるじゃん」
「そうだけど、そのノートに音符を書いてるところを見たことないし」
「思いつくんだけどさ、それをなかなか具体的に出来なくって」
「音楽だもの、さっと流れていっちゃうよ」
「そうそう、そうなんだよね」
「鼻声で歌ったのを録音してみたら?」
「それも試したんだけど家で再生すると微妙に音程が定まらなくって」
「そうなんだ」
「それでまあ気長に待ってるんだけどね」
「閃きを?」
「まあね」
葵はいつもの煮え切らない僕の発言を聞くと黙ってうつむいてしまった。僕は葵のその気持ちを痛いほどわかっていた。僕だって早く満足する収入を得て、それで葵を楽にしたいと思っていた。それに葵が両親からお見合いの話を勧められていることも知っていた。僕みたいなうだつの上がらない男に寄り添っているより、葵の故郷の役所に勤めるその男の方がずっと気楽な生活を送れることは誰の目にも明らかだった。だから僕も葵の幸せを考えるなら、葵にそのお見合いの話を是非勧めるべきなのだ。しかし、もし今葵に去られたら僕は路頭に迷うことは火を見るより明らかだった。だからどうしても葵にさよならは言えなかった。自分勝手だけど、情けないけど仕方がなかった。
葵は近くの石を拾ってそれを向こう岸に向かって投げていた。何かを考えているのか、それとも何も考えていないのか、彼女の表情からはそれが読み取れなかった。葵は次から次へと小石を拾ってそれをひたすらほおっていた。葵にほおられた石は時には軽快に水面をはねて川の中ほどまで跳ねて行ったが、そのほとんどは三つ、四つ飛び跳ねると川の中に沈んでしまった。
「あ」
それがどれほど続いただろうか、小石をあさっていた葵が何か変わったものを見つけたという仕草をして僕を見た。
「大翔君、これ見て」
「どうしたの?」
「これ」
僕はそう言われて葵がこちらに向かって差し出した物を見た。するとそれはまんまるの石だった。
「まんまるだね」
「うん。でも石じゃないよ」
「じゃあ何?」
「木」
「木?」
「うん。流木がここに流れて来るまでに削られて、それでまあるくなったみたい」
僕は葵のところに寄って行って、そのまあるい物を受け取った。するとそれは軽石みたいなふんわりとした木だった。
「ほんとだ、これ木だね」
「なんかきれいにまあるく削られてる」
「うん。まるで人の顔みたい」
その木の表面はすべすべしていた。それに白い色をしていた。それで人間の顔のイメージが僕にわいてきたのだった。
「大翔君、何描いてるの?」
僕は持っていたペンでそのまあるい木に顔を描き出していた。
「葵の顔だよ」
「やだ」
葵はそう言ったものの、描き終えた僕の作品を受け取るとまんざらでもないという顔をした。
「大翔君、上手いね」
「そう?」
「うん。絵、上手いよ」
僕の描く絵がほめられたのは小学校以来だったけど、改めて自分の絵を見るとまんざらでもないような気がして来たのだった。そしてこの時のことがきっかけで僕がイラストレイターになったのは本当に不思議な運命だった。
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