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第5章 ノルマ
それが問題になった。編者からどうしてもスピードアップをして欲しいということでノルマを課せられたのだった。そのノルマとは、来月中に昆虫図鑑のイラストを完成させて欲しいということだった。もう葵にはかまってられない。僕は葵を書斎から追い出して、昼間は勿論のこと明け方までひたすら虫の絵を描く作業に追われ出した。
「どう? はかどってる?」
葵と話をするのも食事の時だけだった。しかし僕の返事は、まあまあだね、とそれだけだった。昆虫の絵と言っても、例えば蝶なら代表的な蝶を一種を描くだけならたいしたことがないのだが、どこがどう違うのか微妙な一点だけが異なって、あとは全て同じような姿かたちをしたものを何十種類もずっと描き続けて行く作業にはほどほど参ってしまうことになった。
もっと時間を掛けてじっくり出来たらいいのに。僕はそればかり思ってその作業を続けていた。もしパソコンを使えば、同じ箇所はコピーして、その違うところだけをちょちょっと描いてしまえばたやすい作業である。ところが全て手描きが売りの僕のスタイルはそれが出来なかったし、そもそも僕のイラストに対する主義主張がそれを許さなかった。
「明け方になると全部が同じに見える」
食事時に僕は葵にそう愚痴るようになっていた。大学の研究室から送られてくる写真を一枚一枚見ながら描く作業は目も手もそして精神も疲労させた。動物よりもよっぽど虫の絵は疲れると、夕食時の時間は僕の愚痴を言う場になってしまった。
「先生、ペースが落ちてます。このままだと来月末までに全てのノルマを終えることは出来ないと思います。それで週末毎にノルマを指定させて頂きますので、その進行表に従ってイラストを描いて頂きます。宜しくお願いします」
スマホの留守録に何が入っているのかと思って再生してみると、そんなことが吹き込まれていた。僕は怒りを通り越して、無気力なため息に襲われた。どうやら疲れが回復せず、それが蓄積して来たのだと思った。不味い。このままでは益々ペースが落ちて、そのうち倒れるかもしれないと真剣に焦った。
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