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「お待たせしました」
男性の前にがめ煮と焼酎のお湯割りを並べた。
がめ煮を見た男性が目を見開いたまま動きを止めた。驚きに満ちた表情でがめ煮を見つめている。
「温かいうちにお召し上がり下さい」
「あぁ、ありがとうございます」
男性ががめ煮に箸を伸ばす。箸の先が小刻みに震えていた。
男性が少し煮崩れた芋を掴み、口に入れる。
「あぁ、この味です……またこの味が食べられるなんて……」
男性は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「大丈夫ですか?」
「……すみません。歳をとると涙脆くて困りますね」
「いいえ。お客様だけではございませんよ。ここに来られるお客様は、料理を一口食べると感極まる方が多いです」
「……そうなんですね」
「はい。今回の人生を締めくくる最期の料理ですから」
「…………」
男性はがめ煮をじっと見つめたまま、静かに口を開いた。
「私は本当に死んでしまったんですね」
「残念ですが……。ホテルでも説明があったと思いますが、ここは四十九日まで滞在する地です。この後は、今生の記憶がなくなってしまいますから、ここで思い出の味に再び出会って頂ければ幸いです。食べることは生きること。お客様がここで食べたいと思ったものが、お客様の人生そのものですよ」
「人生そのもの……」
男性が小さく呟き、再びがめ煮に箸をのばして四角い何かをつまみ上げた。
「私は父を早くに亡くし、女手一つで母が育ててくれました。時代が時代ですから、女性の仕事は限られ、賃金も低く、とても貧しかったんですよ」
「失礼ですが、お幾つですか?」
「私は73歳です。ここでは若い姿に戻ってしまうので、わからないですよね」
そう言うと、男性は少し目尻を下げて笑った。
「ええと、どこまで話しましたか?」
「貧しかったと」
「あぁ、そうそう。貧しくて、こんなに沢山の具材が入ったがめ煮なんて、食べたことがなかったんです。結婚して妻が作ったがめ煮を見て本当に驚きました。」
そう言うと、つまみ上げていた四角いものを口に放りこんだ。
「鶏のぶつ切り、人参、こんにゃく、ごぼう、蓮根、里芋、椎茸、じゃが芋、高野豆腐、それに生姜が入っているんです。普通の筑前煮とは味が少し違うんです」
「生姜ですか!」
俺はがめ煮を箱から取り出した時の違和感を思い出した。なるほど、あれは生姜の仄かな香りだったのか。
「生姜の風味がざらめ糖のコクのある甘味をほどよく引き締めていて、箸が止まらなくなるんです。私はね、煮汁をたっぷり含んだ高野豆腐が好きで……」
そう言いながら、男性は再び四角いものをつまみ上げた。
──あれは高野豆腐か。
「毎年正月に、このがめ煮を食べながら酒を飲み、家族と笑いあうのが幸せでした。このがめ煮は私の人生の幸せの味かもしれないですね」
そう言うと、焼酎をくっと飲んだ。男性の口元が緩む。
「君はここで働いて長いのかい?」
酒の力もあり、緊張が解けてきたのだろう。男性は人懐っこい笑顔で俺を見上げた。
「30年ぐらいです。これが長いのか短いのか、正直わからないですが」
俺は曖昧な笑顔で答えた。
「そんなにか! あぁ、でも、神の遣いの類いだったら、短いのか」
「神様の遣いなんて滅相もない。私はお客様と同じように、人間としての生を終えてここに来たのですよ」
男性が湯のみを持ったまま俺の顔を見つめてきた。その顔は驚きから目が見開かれていた。
「でも、ここには49日しかいれないのだろう? さっき、30年って……」
「私にはやるべきことがあるようで、それでここにいるのです」
「やるべきこと?」
「恥ずかしながら、それが何なのかわからないのですよ。忘れてしまったようで」
「ここにいる理由を忘れてしまったのか!?」
男性が驚きとも非難ともとれる声を上げた。しかし、そんなことには慣れっこだ。
「仕方ないんですよ。49日を過ぎると、どんどん記憶が薄れてきてしまうのです。普通は生まれ変わるために全てを忘れてしまうので、ぼんやりとでも記憶があることは奇跡に近いんですよ」
男性は俺の言葉が意外だったのか、手元の湯のみに目をやり、呟くように言った。
「そう……ですか……。全て忘れるのですか」
自身の人生を振り返っているのだろう。男性は黙り込んでしまった。俺は気にせずに話を続ける。まるで自分に言い聞かせるように。
「今は忘れてしまっていますが、その時がきたら、思い出す自信があります」
──そう。やるべきことはきっとわかる。
テラスに続く窓の外に目をやると、湖沿いの道路を小型のバスが走っているのが見えた。
「お客様、本日の現し世へのシャトルバスがそろそろ到着です。ご利用になる場合は、ホテル入り口横のバス停へお向かい下さい」
「あぁ、ありがとう。がめ煮を食べたら、妻の顔を見たくなったよ」
そう言うと、男性は立ち上がった。その顔は穏やかに微笑んでいた。
出口に向かって2、3歩進んだところで男性が立ち止まって振り返った。
「君は現し世には行かないのかい?」
男性を見送っていた俺は、思いもよらない問いかけに一瞬だけ笑顔を忘れてしまった。しかし、直ぐにいつもの笑顔を貼り付け返事をする。
「私は行けないのですよ」
「行けない? 仕事があるからかい?」
「いいえ、違います。49日を過ぎてもここに残る者は、現し世には行けないのです」
「そうかい……度々申し訳ない」
私の状況を慮ってか、男性は憐れむように目を伏せた。
「いいえ、お気になさらず」
男性は私を見ると、目尻を下げてどことなく寂しそうに微笑んだ。
「ご馳走さま。また来るよ」
そう言うと男性は退店していった。
──本当に気にしなくていいのに。
俺には生きていた時の記憶が殆どない。自分の名前だって、名札がなければ忘れてしまうくらいだ。だから、誰かに会いたいとか、現し世のあの場所に行きたいとは思わない。
やるべきことのためだけにここにいる。生まれ変わることも、天国に行くことも、地獄に行くこともなく、ここにいるのだ。
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