カフェ・ハデス

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 暫くして、満員のシャトルバス3台が湖の横を進んでいくのが見えた。これから夜までは静かな時間が続く。俺は、いつものようにカウンター奥の厨房で他の従業員たちと雑談をすることにした。  厨房に入ると、既に男女2人が話し込んでいた。女性は佐藤、男性は小井出だろう。俺は水の入ったコップを持って、声を掛けた。 「お疲れ様です」 「あぁ、田中くん! お疲れ様」  にこやかな笑顔で返事をしたのは、ショートボブで大きな瞳が印象的な佐藤だった。横にいた大柄の男性はやはり小井出だ。 「盛り上がっていますね。何の話をしていたんですか?」  俺が質問すると、2人とも黙り込んだ。あれ? と思い、再び口を開く。 「どうしたんですか?」  すると、小井出が声を潜めた。 「お前、知らないのか? 中村のこと」 「中村さん? 俺よりベテランの、あの真面目な中村さんですか?」 「そうだよ。いつも長い髪を一つに結んでる、あの中村だよ」 「中村さんがどうかしたんですか?」  ここで佐藤が会話に割り込んできた。 「中村さん、一昨日の夜からいなくなったのよ」  ここだけの秘密かのように、声を潜めて話しているが、瞳が爛々と輝いている。話したくてウズウズしていたのだろう。 「えっ! そうなんですか? 全然知らなかったです」  俺は驚きから、つい大きな声を上げてしまった。 「もうっ! 声が大きいわよ!」  佐藤が片眉をつり上げ、口元に人差し指を当てた。俺は慌てて口を押さえる。周囲を見渡すが、厨房には俺たち3人しかいない。 「……すみません。で、中村さんの話ですが、中村さんに何があったのですか?」  ここで働いている人たちの中で、何のためにここにいるか覚えている人はいない。そのことを不安に思ったことは、皆、一度や二度ではないはずだ。  そして、記憶が薄れてゆくことが、その不安に拍車をかける。もう何も思い出すことなく、永遠にここにいるのではないかと。 「一昨日の夜、中村さんの娘さんが来たらしいのよ。その後から誰も中村さんを見てないの」  佐藤の密やかな声が耳元に響く。 「娘さん? じゃあ中村さんは娘さんを待ち続けていたのですか……?」  ──俺も、誰かを待っているのだろうか?  頭の中にぼんやりと人影が浮かんだ気がした。しかし、その姿はハッキリしない。  すると、それまで黙っていた小井出が呟くように話し出した。 「俺、見たんだよ。オーナーが綺麗な女の人を連れてきて、中村に会わせているのを。あの静かな中村が、『てるこ‼』って叫んで、女の両腕を掴んでさ、崩れるように膝をついたんだ。あんなに取り乱すなんて、きっと娘に違いない……そのあと、中村が女を個室に案内してたけど、俺、オーナーから『今日はもう上がりなさい』って言われて……」  小井出の頭は徐々に垂れ、それにあわせて声も小さくなっていき、最後は黙り込んでしまった。  そんな小井出を他所に、俺と佐藤は口が止まらない。 「オーナーが来たんですか? 珍しいですね」 「ホントにそうよね! 私、ここに来た時以来会ってないわよ。でも、オーナーって、ちょっと恐い感じがするのよね」 「確かに。整った顔だけど、あの貼り付けたような笑顔が威圧感があるというか……まぁ、オーナーは人ではないですからね」  不意に小井出が顔を上げた。 「中村さん、オーナーに食われたんじゃないかな⁉」 「「は⁇」」  俺と佐藤は小井出の突然の発言に呆気にとられ固まってしまった。静寂がその場を包む。 「何の根拠があってそんなこと言うのよ!」  怒りと困惑を含んだ高い声が静寂を破った。佐藤が語気を強めながら小井出に詰めよった。小井出は佐藤の勢いにたじろぎながらも反論する。 「だって、オーナーは人じゃないんだ。中村の娘に会いたいっていう願いを叶えて、その代償に食べちまう……おかしくないだろ?」 「あんた……」  佐藤が眦を吊り上げ小井出に詰め寄る。騒ぎになっては面倒だ。俺は2人の間に入った。 「まぁまぁ、どちらでもいいじゃないか。目的が達成できたのなら……」  2人は俺の顔を見つめ動きを止めた。2人の瞳が大きく見開いている。 「どうかしました?」 「いや……」  小井出が力なく首を横に振った。  佐藤は無言で俯いている。  カラン、カラ~ン  その時、入り口のベルが鳴り響いた。  俺は2人を厨房に残して店の入口に向かった。
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