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「なぁ、ヘタローちゃん。今日、ヒマ?」
俺は一戸太郎に、スマホから電話をかけた。親友ってほどではないが、前にバイトをしていた模型店の店員仲間だった。そこは東日本最大級の模型店で、売り場面積は約七百坪もあった。とにかく広いったら、ありゃしない。主力商品のプラモデルの在庫が豊富で、車や戦車などのスケールモデルからロボット系アニメモデルまで、その品揃いは他の追随を許さない程だった。通販サイトの倉庫じゃないのにこんなに並んでいるのを見たら、好きな奴が見たら絶対感動するだろう。
ヘタローとはその職場での愛称で、俺も疑問を持たずにそう呼んでいた。余計なお世話かも知れないが、本名の一部とはいえヘタレっぽい印象を与える。なので俺は、「ちゃん付け」で引け目を僅かでも緩和しようとしていた。
「うん。巌くん、お久し振りです。大丈夫だけど、何かあった?」
こっちが愛称で呼んでも、一戸太郎は俺をあだ名で呼ぶことは無かった。一歩、距離を取られているんだろう。俺の名前は武藤巌と字面はイカついが、一戸太郎と一緒で音に濁点を含まないので響きが弱い者同士だ。選べるのなら、ダイチとかタイガとかが良かった。強いロボットには濁点が付きものなので、俺はプラモ仲間からは音読みで『ガンム』と呼ばれている。巌武藤で、ガンムトウなのだ。一戸太郎もそう呼べばいいのに、頑なに遠慮していた。
俺がバイトを辞めて一年も経つし、その間に連絡したのは一度ぐらいだったので、突然の連絡を不審がるのは一戸太郎じゃなくたって同じだろう。誰だって、そんな連絡は同様に警戒する。だが俺は打算もなく、純粋に会って一緒にホビーの話をしたいと考えたからだ。
「いや、何もないよ。ヘタローちゃんってプラモ上手かったから、久し振りにその話でもしようかなと思って」
「それならいいけど、僕、貸すほどのお金も無いよ……」
一戸太郎の心のバリアは、予想以上に強固だった。
「てか、バカ。俺は、ちゃんと独立しただろ。忙しいぐらいで、金にも困ってねえよ」
ムキになってしまったのは、一戸太郎は俺がバイトを辞めた理由を知っているはずだったからだ。
「そうだったよね、ごめん。じゃ、今でもやっているんだ」
「あぁ、そうだ。あそこを辞めた今でも、俺はプラモを作り続けているんだ」
俺は独立して、ロボットアニメのプラモ製作代行をしていた。その誇り高き自分の手を見つめ、そして拳をギュッと握った。憧れの職人になれたはずの俺は、一人で仕事をしているため誰かと話をしたくなっていた。寂しいというよりは、含蓄をぶつけ合うライバルが必要なのだ。
「あっ、そうそう、その仕事ね。順調なんで、そんな話でもしたいし、ヘタローちゃんの近況とかもさ」
親友ではないと思いつつも、あの職場で何だかんだ一番仲が良かったのはこいつだったと思う。その卓越した知識で、俺をぎゃふんと言わせて欲しかった。
「うん、それならいいよ」
「おっ、ありがとう。あそこって、まだバイトしてるのか? って、その話はあとでいいか」
はやる気持ちが、俺を勇み足にさせた。積もる話は……、そう、会ってからでいい。
「そうだね、はははっ」
彼の笑い声を含む回答から、快く会ってくれるのだと俺もほっと胸を撫で下ろした。
「じゃあ、このあと駅前に六時でいいか?」
「うん、大丈夫」
一戸太郎の自宅から最寄りの駅で、俺たちは待ち合わせすることにした。
「やあ、ヘタローちゃん久し振り。元気にしてた?」
「うん。巌くんも元気そうだね」
俺たちはどちらからともなく、強すぎない程度の握手を交わした。スポーツマンシップに則っている訳ではないが、俺らは昔からこうフェアな関係だった。でも、彼の手は、こんなに細かっただろうか。
少し歩いたところに昔ながらの喫茶店があったので、そこを今日の作戦本部とすることにした。木製の調度品が落ち着いた雰囲気を醸し出していたので、俺はたまに寄ることがあった。
テーブル席に向かい合うように腰を掛け、注文したコーヒーが出るのを待ってから、俺たちは話を始めた。
「ヘタローちゃんって、やっぱりまだ作っているよね」
彼は俺よりプラモデル歴が長く、同じようにアニメのロボットを好んでいた。部品の合わせ目を消したり、ムラのない光沢のある塗装など綺麗な仕上がりに定評があった。それでいながら戦車などのスケールモデルの知識も持ち合わせていて、金属がハゲたり泥が付いたような使用感を表現するウェザリング塗装の技術にも長けていた。そんなこともあり、勤務先のガラスケースには作例として展示される腕前の持ち主なのだ。あだ名はヘタローなのに、下手どころか超が付くほどの上級者だ。こんな俺も、彼の作風には刺激されてきた。知らない誰かの動画サイトでは得られない影響を受けたと、告白してもいいだろう。
「あ、いや……」
期待に反して、妙に歯切れが悪かった。俺は、腕を磨くのを忘れたライバルに会いに来てしまったのだろうか。
「いや、いいよ。でも、まだあそこにいるんだよね」
「うん」
その即答にも近い反応は、まだ希望を捨てるには早いと感じさせるに充分だった。
「あそこだと、新作がいち早く見られるし、社内販売価格で安く買えるから」
「それは、とてもエキサイティングだな。俺もプラモやゲームの新作は待ち遠しいタイプだから、それはよく分かる。でも、掃除とか商品の陳列ばかりだろ?」
一戸太郎が勤務を続ける意図を訊くことはできたが、創作意欲に満ちたものではないと知って非常にがっかりした。仮に俺が一割引きかそれぐらいで商品を入手したとしても、俺の作品の価値は揺るがない。製作代行の手数料はしっかり設定しているので、その僅かな金額で利益を出すようなケチな真似は信頼に関わる。なので、彼には閉店間近のスーパーの弁当の割引きを待つみたいな、見苦しい真似はして欲しくなかった。
「そうなんだけど、店員枠で予約できるんだ。お客さんには入荷数を少なく言っても、誰も疑わないしね。いいでしょ」
さも選ばれし者の特権かのように自慢げに話しているが、俺が一戸太郎を選ぶのなら、その技術の高さを買う。
「そんなもんか」
「そんなもんだよ」
彼のその冷めた回答が、俺が尊敬したプラモデラーと同一人物なのか疑いそうになる。
「巌くんさ、奢ってもらって悪いけど、コーヒーってこんなにするんだね。牛丼、食べられるじゃない」
卓上にあったメニュー表を手に取りながら、一戸太郎は唐突に自分の価値観を語り出した。もしやと思い、彼の姿をよく観察することにした。やはり細いのは手だけではなく、頬はこけて、腕や体つきも痩せ細っているのが俺の目にも明らかだった。
「牛丼はいいけど、ヘタローちゃんって飯食ってる?」
俺は遠慮なく、そのことを訊ねた。
「あの、まぁ、ちょっと……」
またしても、歯切れの悪い回答だった。
「その感じは、まともに食ってねえだろう。ひょっとすると、割引きでプラモの買い過ぎとかなのか?」
「いや、プラモはちょっと最近……」
この発言で、俺の中の正義感のようなものが疑念を抱いた。
「プラモ以外、何だよ。……おまえまさか彼女できないを拗らせて、保護猫でも飼い始めたか? 餌代が大変なら、相談に乗るぞ」
彼を呼び出したのは別の用事があったからなのだが、本来の話題そっちのけで小さな命を守ることに本気で力になりたいと思った。
「なんだよ、そんな訳ないじゃない。それに、うちのアパートはペット禁止なんだよ」
「そっか。じゃあ、女を囲ってるとかじゃないよな。まさか、未成年略取とか……」
俺はニュースで聞いた小難しい単語を駆使し、最悪の事態を想定した。夢を語り合いに来て、知りたくないほうの近況を聞かされる羽目になるのだろうか。
「そんなこと、ある訳ないじゃないか」
「じゃあ、ギリ十八とか」
成人年齢が引き下がったことで、その定義も多少は変わったのかもと俺は考えた。
「ふうっ。巌くん、今日って何の話をしに来たんだっけ?」
「いや、大会直前のボディビルダーのように皮下脂肪が無いように見えるから、俺はヘタローちゃんのことを心配してんだよ」
一戸太郎がそんな感じだから、俺は本題に入れないでいるんだ。彼にはまだプラモは作っていて欲しいし、変なことに手を染めないでいて欲しい。本気で心配しているからこそ、溜め息を吐かれても俺は一向に気にしない。
「だったら、痩せているとか気にしてくれなくてもいいよ。それにビルダー違いだよ」
彼が言っているのはプラモなどの模型をビルドする人、つまり作る人のことだ。
「いや、ダメだ。ちょっとこれから、ヘタローちゃんの家、行こうぜ」
俺はおもむろに立ち上がると、有無を言わさず彼の腕を掴んで立たせようとした。やはり服で覆われた腕も、かなりの細さだった。
「ちょっと、待ってよ。何も無いから」
「じゃあ、何も無くていい。俺はヘタローちゃんを呼び出した責任があるから、ちゃんと送ってやるよ」
これまでにこれほど強く彼に当たったことは無かったが、俺の直感は何かあると訴えていた。
「分かったよ。分かったから、これだけでも飲ませてよ」
そう言って一戸太郎は、砂糖とミルクの入ったコーヒーを少しづつ飲み干した。そして俺は、同じようにそれをブラックで楽しんだ。
速やかに会計を済ませ、店の前で足がふらつく一戸太郎と一緒にタクシーに乗り込んだ。足元が覚束ないのに、よく喫茶店まで来たと思う。彼が自宅アパートの住所を運転手に告げると、ワンメーターの距離ですぐに到着した。喫茶店でもそうだったが、俺は領収書を欠かさず貰うことにしている。その傍で、一戸太郎が「あぁ、タクシー代もったいない」と呟いたのは聞き逃さなかった。
車を降りた目の前にある三階建てアパートの二階に、一戸太郎が一人で住まう部屋があった。
「うわっ、何だよこの部屋」
俺の感想の一切がオブラートに包まれることなく、思ったままに放たれた。そこにあったのは山積みにされた箱と、陳列されたフィギュアの数々だった。俺はてっきり自分と同じように、完成されたロボットのプラモデルが並んでいるものだと思っていた。だが、実際には異なっていた。
「何だよって言わないでよ。これだって、立派な趣味じゃないか」
そうは言うものの、これまで知っていた一戸太郎の趣味とは違うジャンルのフィギュアが所狭しとひしめき合っていた。それらは胸などがやたらと強調され、着衣の布が少なめで肌の露出度が高い美少女フィギュアだった。
「はあっ。今は、これがヘタローちゃんが一番熱を入れているホビーなんだ……」
今度は、俺の方が遠慮なしに溜め息を深く吐いた。彩色され組み立て済みのフィギュアは、プラモデルの世界とはかなり掛け離れたカテゴリーなので、俺はがっかりしていた。
「これって、アニメのキャラ?」
「もあるけど、ほとんどゲームのキャラ」
そう言われてみれば、こんなのが深夜アニメでも登場するには、セクシーを通りこしてエロ過ぎだった。
「ふーん。まさかこのフィギュア、ブラックライトに反応しないよな?」
俺は中古玩具店が買い取りする際に、ブラックライトを照射して確認するという話を聞いたことがあった。指の皮脂などでも多少は反応して光るらしいのだが、概ね液体を垂らしたような痕跡で光るとかなのだ。
「巌くん、まさかが過ぎるよ。そんな訳ないじゃないか!」
一戸太郎は間髪入れずに、全力で否定した。青白い顔を赤くしてムキになる辺り、非常に怪しい。まぁ、人の趣味はとやかく言わないが、彼にはプラモ作りを辞めて欲しくなかった。
「そうだな。でも、もし食費を削ってコレクションに全財産を注ぎ込んでいるんなら、どうなんだろうって思うよ」
「それは、どういうこと?」
俺が咎めるような厳しい視線で一戸太郎の目を見つめながら言ったが、彼はその視線を外そうとはしなかった。
「いや。ヘタローちゃんが余りにも痩せ過ぎなんで、心配しているんだ。だからさ、コレクション売って、飯食えよ」
例え勤務先で一割引きで買ったにしては、その量は尋常ではないと感じた。
「いやだよ。これらを手に入れるのに、どれぐらい苦労したか分かんないから簡単に言うんだ」
俺だって仕事以外にレアなキットは欲しいし、実際に手に入れてきたから分かる。だから、これ以上のことは何を言っても説得はできないだろう。だが、俺は諦めない。
「分かるさ。だから、俺がヘタローちゃんを買うんだ」
「いや。僕、そんな趣味ないよ」
一戸太郎は両手で尻を押さえ、僅かに空いた壁に背をつけた。
「バカ、そんな趣味ねえよ。そもそも今日、俺がヘタローちゃんに話に来たのは、プラモ作りの腕を買ってのスカウトなんだ」
「スカウト?」
「あぁ、そうだ。俺は、事業を拡大していくんだが、人手が必要なんだ」
模型店を辞めてフリーの職人になるのもいいと思ったが、この物作りが好きな気持ちは日に日に拡大していった。
「それは凄いね。素直に、おめでとうって思う。だけど、プラモの製作代行だけで会社なんて起こせるの?」
「あぁ、俺みたいに同時に三体とか組めるようになれば、月に十体は納品できる。だけど、ヘタローちゃんの心配はそのスケジュール管理だけではなく、そもそも受注数がずっと確保できるのかって心配だろ?」
俺はその疑問も想定内なので、少しも気持ちが揺らぐことはない。
「うん」
「そう思うのは、仕方ない。俺だって、同じ立場ならそう思う。リピートしてくれるお客さんだって、ずっと注文してくれるとは限らないもんな」
彼の不安は、俺の不安要素でもあるのは間違いない。でも、俺はここで弱腰な態度を表してはいけなかった。
「だから言っているだろう、事業だって。受注や製作、梱包と発送。やる作業はたくさんある。だけど、俺はオリジナルのキットとソフビのメーカーをやるんだ」
「インディ系ってこと?」
「あぁ、面白そうだろ。バイトを辞めてからの一年は、ただプラモを作っていた訳ではない。いろいろと、必要なことを調べていたんだ。プラモのキットは、3Dプリンターで結構な品質のものも作れるし、俺のデザインから立体データを起こせるソフトも勉強した。ソフビに関しては、造形師と工場のルートも確保した。完全に、メイド・イン・ジャパンだ。ヘタローちゃんは、塗装して組むだけでいい。雑務は、他に事務職も雇う」
俺は企業のリーダー然としながら、相手の理解の及ぶ説明に努めた。
「そこまで、考えているんだね」
「そうだ。そういうこともあって、仕事のプラモ作り以外に別のホビーがあってもいいだろう。だから、俺はヘタローちゃんに作ることをやめて欲しくないんだよね」
「……だけど、バイトあるし」
彼は、俺の提案に即答することはなかった。だが、それが普通の回答だろう。
「そうだよな。安定が約束された大企業からのオファーじゃないから、心配するのが当然の反応だと思う。けど、冒険してもいいんじゃないかな」
「少し、……考えてもいいかな」
一戸太郎は僅かに興味を残してくれているようだが、ここでがっついても逃げられるのがオチだ。ここは、一旦退いておこう。
「そうだな。でも、飯は食えよ」
「それは……」
彼はまだ、自分が責められていると考えているようだ。
ふと部屋の隅に目をやると、俺も好きなロボットのキットの箱がいくつも積まれているのが分かった。そしてその中には、製作代行のオーダーを請けているプラモデルもあった。
「まだ、メカは好きなんだな。そうだ、これ後で同じの返すから、合わせ目消しと塗装を一週間でやってくれたら、先に一万円払うけどお願いできる?」
積まれた箱の中から、アニメの主人公が搭乗する機体のプラモデルを手に取って依頼してみた。
「もちろん、今は下請け的な金額しか言ってないけど、雇用したらちゃんとした金額を取り決めるさ。けど、決して安くないだろ?」
俺は気軽に「うん」と言ってくれるように、気構えずに提案した。
「もう、仕方ないなぁ。分かったよ。やればいんでしょ?」
「オッケー、ありがとう。塗装は取説通りで、デカールは無くていい」
一戸太郎の丁寧な仕事は俺がよく知っていたので、アレンジだとかスジ彫りだとか、それ以上のオーダーはかえってヘソを曲げると思った。なぜなら、俺自身もそれだからだ。
「分かったよ、一週間ね」
彼が視線を天井の方へ向けたのは、バイトのシフトなどからスケジュールを頭の中で確認したのだろう。
「取りに来るから、梱包とかはしなくていいから」
「了解したよ。じゃあ、今日から取り掛かるから」
今日はお引き取りくださいと続けそうな一戸太郎の目には、一流モデラーの火が燻っていた。俺は彼の気が変わる前に、一万円札を置いて速やかに退散した。
徒歩で帰途に着いたが、終始俺の鼻歌が止まらなかった。それは一戸太郎を仲間にできるかも知れないというのと、また彼の作品が真っ先に拝めるからだ。俺はその楽しみを胸に、事業の準備を進めるとしよう。
――一週間後
俺は浮き足立つのを抑えながら、約束の時間より早く到着しないように、一戸太郎の住まいを目指した。今日は嫌味にならないようにと、電車を使ってきた。在宅での作業がほとんどなので、たまに歩くのも運動不足解消になっていいだろう。言っても改札を通って十分もすれば、彼の住む三階建てのアパートに辿り着く距離だ。今日は天気も良いので、作品が雨に濡れるといった心配もない。俺は発送にも手慣れているので、梱包材の準備も抜かりなかった。
道のりも七割ぐらい過ぎた頃、俺はそれに気が付いた。何かの騒ぎだろうか、一戸太郎の住む辺りに人だかりができていた。群衆の先には赤灯の乗った白い車も見えたので、それはすぐに救急車だと察した。
「まさか……」
俺は妙な胸騒ぎがして、意図せず独り言が口から漏れてしまった。だが、それを耳にするものは辺りにいない。なぜなら、その騒ぎに駆け寄ろうとする野次馬か、関心を示さずに通り過ぎようとしている者しかいないからだ。普段は見知らぬ方に声を掛けたりなんかはしなかったが、俺は意を決して犬の散歩をしていた年配の男性に訊ねてみた。
「すみません。あれって、何かあったんですか?」
「あぁ、あれね。あれはイチノテタンのとこで、誰かが倒れたとかですよ」
マスクをしているせいなのか滑舌の問題なのか発音が曖昧がったが、俺には「一戸さん」と聞こえていた。余りの驚きに、不覚にも脱力で荷物を落としそうになった。一戸太郎に先に報酬を支払ったのは、何か食って元気になって欲しかったからだ。まさか、その金でコレクションを増やすなんて馬鹿な真似はしていないだろうな。俺の中で、彼の安否を気遣う気持ちと疑念が渦を巻いて混じり合っていた。
「そうなんですね、ありがとうございます」
俺は男性に一礼をすると、足早に彼の住むアパートを目指した。距離が距離だったし緊急事態だということもあって、俺は携帯電話で連絡するという考えには至らなかった。まずは駆け付けなければと、焦っているのだろう。仕事を依頼したということもあって、気持ち的には管理職か保護者みたいになっていた。そんな俺は冷静であろうとしたが、両手に抱えた荷物が小走りするには無性に煩わしかった。
建物の正面に停車された救急車と、救急隊員と思われる二名の姿が目に入ったが、ストレッチャーで誰かを運んでいるといった様子は窺えなかった。幸いにも規制線のようなものは張られておらず、一戸太郎の部屋を目指すことができそうだった。ただ彼は無事なのかと、俺の胸の鼓動は早鐘を打っていた。そして、咎められたらどうしようという緊張があったが、俺は平静を装って階段を静かに上り始めた。もし仮に救急隊員に制止されたとしても、「ごめんなさい」で済ませよう。
無事に二階まで移動することに成功した俺は、一戸太郎の部屋の前で様子を伺った。室内では、特に慌ただしさのようなものは感じられなかった。先ほど階下で見かけた救急隊員以外に駆け付けた者はいないということなのだろうか。ただ黙っていても埒が明かないので、俺は覚悟を決めて呼び鈴のボタンを押した。
「ピンポーン」
特に個性もないありきたりな音が鳴り、しばらくしてドアに人が近づく気配を感じた。家族だったら何て言おうか、少しだけ警戒した。すぐにガチャリとドアが開くと、そこにはよく見知った顔があった。
「やあ、巌くん」
「ヘタローちゃん、生きてたか」
「な、何を言ってるんだ。僕は、ちゃんと生きてるよ」
一戸太郎は、勝手に安堵していた俺が、おかしなことを言っていると感じているようだった。
「でも、救急車来ただろ?」
「鳴ってたよね。たぶん、隣だと思う。まぁ、上がってよ」
彼は俺を部屋に招き入れながら、意外なことでもないといった風に、あっけらかんとして話していた。
「そこに、掛けてよ」
壁際にはコレクションの箱が並んでいたが、彼が指し示した床はテーブルと座布団ぐらいしかなく整然としていた。前に訪れたときより、少し片づけたらしい。
「ここ、救急車ってよく来るのか? 俺、途中で誰か倒れたって聞いたぞ」
俺は、犬の散歩をしていた男性から聞いた話を話してみた。
「うん。隣の一ノ瀬さんってオジさんだね」
「えっ?」
俺は拍子抜けして、間抜けなリアクションをしてしまった。でも確かに俺が耳にした名前は、イチノヘなのかイチノセなのか怪しいところだった。
「なら、よかった。いや、倒れたんなら良くないか。でな、俺ここに来る途中で知らない人に、イチノテタンのところで誰かが倒れたって聞いたんだ」
「なにそれ、イチノテタン? それならやっぱり、一ノ瀬さんのことだろうね。なら僕は、これからイチノヘティタンにしようかな」
一戸太郎は気持ちよくなったのか、宇宙航空技術にも使われる金属みたいなことを口にした。
「それ、どういう意味だよ」
「ふふっ、ティタンはタイタンのこと。つまり、巨人一戸ってこと」
彼は語源のようなことを語っていたが、それは即ちロボットアニメでも使われる単語で、彼はまだこっちの世界にいると分かった。なぜだか、とても安心した。油断したら、うるっとしそうになるぐらいにだ。
「大きく出たな」
俺より少し背が低く、痩せっぽちの一戸太郎が強気になることは、嬉しくもあった。
「まあね」
「それにしても、一ノ瀬さんってよく倒れるのか」
俺は一戸太郎が無事だったことを知ると、別の疑問を払拭しておきたくなった。
「そうなんだ。大したことなくても、よく来るね。なんでもスマートウォッチの転倒検知の機能で、119へ緊急通報するように設定してあるらしいんだ」
「……そいつは大事な心掛けだが、今回もえらい大騒ぎだな」
生命の安全は何より優先されるとして、頻繁に救急車が来る状況は、集中力を大事にしたい俺には耐えられないと思った。
「もう慣れっこだけどね」
「そうか、それならいいんだけど。それより、あれできたか?」
俺は一連の仕組みを理解すると、報酬を支払っておいた件について訊ねた。
「うん、できたよ。ちょっと、待ってて」
彼はそう言って、部屋の隅へと移動した。なんだろう、このクリスマスの朝より胸が躍る様は。
「巌くん、これだよ」
その言葉と共に目の前のテーブルに音もなく、完成されたそれは静かに置かれた。
「凄え」
聞こえるか聞こえないかぐらいの大きさで、俺は感嘆の声を漏らした。
一戸太郎が仕上げたプラモデルは、上品なチョコレート菓子か飴細工のような繊細さと美しさを兼ね備えていた。それは、手に取らなくても分かる。塗装には重厚感があるが、決して厚ぼったくはない。この絶妙な仕上げこそ、俺が一戸太郎に惚れ込んでいる部分だ。
「ありがとう、これで納品できるよ」
俺がそう告げると彼も信頼されていると安心したのか、領収書をすっと差し出してきた。
「巌くん、これ」
「あぁ、そこまで用意してくれてたのか、ありがとう」
雇用であれ委託であれ、こういったやりとりがきちんとできる人間というのは、本当に心強い。
「それと、これ返しておくわ」
俺は、彼に作らせた物と同じ新品のプラモを手渡した。
「うん。それよりさ、おなか減ったぁ。ずっと仕上げ処理をしてたから、昨夜から何も食べてないんだ」
昨夜からとの発言から、この一週間は彼なりにきちんと食事をしていたのが理解できた。食事を我慢して、コレクションを増やさなかった点は褒めてやりたい。
緊張が解けたのか、家族でもないのにこんな甘えた話し方をするのは、俺の荷物が原因だろう。
「何のことだ?」
俺は、一応とぼけておいた。
「何だよ、ずっと旨そうな匂いさせてるじゃないか」
そんなことを口にした彼は、まるでおあずけを食らった飼い犬のように、よだれすら垂らしかねない勢いだった。
実はここに来る途中の駅前で、俺は牛丼二つをテイクアウトしてきていた。きっと玄関を開けたときから、ずっと匂いを辺りに漂わせていたんだろう。無論、意地悪をするつもりではなかった。
「ぐぅー」
「なんだよ、凄え腹鳴ってるじゃないか。分かった、俺も腹が減ったから出すよ。ただし、お茶はティタンが淹れてくれよな」
「ふふっ、早速ですね。了解です」
彼はまんざらでもない顔を見せたので、今後うちの所属になったら、その名を公でも使うことにしよう。
ようやく俺は、改めて一戸太郎に本題を切り出すことができる。まずはその前に、お互いの空腹を満たしておこう。朝食を摂らない派の俺でも、この軽い飢餓感が今はなぜだか心地よかった。
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