モーニング

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モーニング

 ディスプレイに表示される「送信完了」の文字。それを目にした途端、どっと体中の力が抜けていった。今しがた完成した原稿は、無事送り届けられたようだった。これで締め切りと私の生活は守られた。安堵のため息をつきながら、私はそのまま床に寝転ぶ。  連日遅くまで原稿に取り組んでいたからか、床の固さなんて気にならないほどの眠気に襲われる。その一方で頭のどこかは覚醒していて、なかなか目を閉じることができない。カーテンの隙間から見えた空は仄々と白み、このまま眠るのが惜しい気さえしてきた。  重い身体を何とか起こし、窓辺に向かう。窓を開けると、まだ少し夜の匂いを残した風が頬を撫でていった。眩しい朝陽が無人の路地を照らしている。朝露でも反射しているのか、そこかしこに生えた雑草がきらきらしていた。人々の往来や車の排気ガスで汚れていない世界を見るのは、ずいぶん久しぶりのような気がする。  こんな時間なら、人に会うこともないだろう。身支度もそこそこに、私は早朝の街を散歩するべく部屋を出た。  外に出たのは良いが、これといった当てなんてない。今まで通ったことのない道を、普段は素通りする路地を、ここぞとばかりに進んでいく。迷子になったとしても、まあ、昨今は地図アプリという文明の利器があるから大丈夫だろう。  そうして曲がった先に、「喫茶 燈台守」と書かれた看板が現れた。店先の札が、既に営業中であることを示している。夜の続きのようなこの時間から開いているのだろうか。  そっと扉に手を掛けてみる。扉は見た目より重かったが、鍵はかかっていなかった。 「いらっしゃいませ」  糊のきいたシャツを着た店員に案内され、吸い込まれるように窓際の席に腰を下ろす。レコードの音楽が微かに聞こえてくるだけで、店内はとても静かだった。音楽には疎いから、何の曲かは分からなかったけれど。  注文したのは、サラダにトースト、スクランブルエッグ、そしてコーヒーというシンプルなモーニングセット。追加料金でコーヒーがスープに代わるらしく、カフェインが苦手な私には有難かった。  注文を確認した店員の後姿を見送ってから、見るともなしに店内を見渡す。カウンターの傍に並ぶ箱には、一体何が入っているのだろう。壁に掛けられたガラスの浮き球は、実際に使われていたものだろうか。    いけない、いけない。初めて訪れた場所で真っ先にすることが観察なんて、一種の職業病だ。 「お待たせいたしました、モーニングセットでございます」  目の前に差し出された料理に意識を呼び戻される。そういえば、執筆にかかりきりで昨晩からろくに食べていなかった。    今更のような空腹感に急き立てられるように、サラダにフォークを突き立てる。ドレッシングの酸味と、野菜のみずみずしさに目が覚めるようだった。生野菜なんて久しぶりだな、なんて、日頃の不摂生を思い出して一人苦笑した。    しっかりと焼かれた薄めのトーストには、ちょうど良い火加減のスクランブルエッグがよく合った。陽だまりの色をしたマーマレードも、酸味と苦味のバランスが良い。料理を食べるごとに胃の中に温みが広がり、活力で満たされていくようだった。    コンソメスープが入ったマグカップを持ち、ゆっくりと一息つく。薄暗い店内に朝陽が差し込んで、窓にはめ込まれたステンドグラスがカラフルな影を落とした。    あぁ、朝が来たんだな。  望むか否かにかかわらず、平等に朝は訪れる。  そのことが恐ろしくて眠れない頃もあったけれど、今は不思議と心が凪いでいた。  訪れたときは私だけだった店内も、一人、また一人と客が増え始めてきた。スーツを着た出勤前と思しきサラリーマンに、夜の余韻を引きずっているような学生。    訪れる人の数だけ、この店から様々な物語が生まれているのだろう。当人にとってはありきたりで平凡かもしれないけれど、それでも、かけがえのない物語たちが。    はたして、今日はどのような物語が紡がれるのだろうか。    まあ、私にそれを知る術はないけれど。
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