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ナポリタン
三年付き合った人と別れた。
二〇代も後半に差し掛かる今、それなりに長く一緒にいた人と別れるのは正直色々な意味でしんどかったけど、いっぱい泣いたりカラオケで歌ったりするうちに気持ちの整理もついてきた。昔から恋多き女だったあたしは、失恋の痛みの処理にもいつの間にか慣れてしまっていた。
今はもう、あの人の好きな曲を耳にしても、雑踏でふとあの人と同じ匂いを感じても、心が騒めくことはなくなっていた。まぁ、何だかんだこうやっていつも立ち直れるんだよね、あたしってば。
「というわけで今日はあたしの快気祝いに付き合ってくれてありがとー! あたしの今後に乾杯‼」
シックな店内に似合わないテンションで、あたしはアイスカフェオレのグラスを高々と掲げた。少し困ったように眉を下げながら美和が、気遣うような微笑で玲が、各々自分のコップを軽くぶつける。氷が揺れる涼しい音がした。
「案外元気そうでよかった。髪の長さも変わってないし」
「あのときはびっくりしちゃったなぁ。でもショートも似合っていたよ、裕ちゃん」
そういえば学生の頃、失恋して髪を切るというかなりベタなことをやったっけ。高校時代からの付き合いの二人は、今までのあたしの恋愛事情をもれなく聞かされてきたんだ。
「髪といえば玲の方じゃん。またばっさりいったねー」
あたしがそう言うと、玲は前髪を指先で弄りながら首を傾げた。前までのボブもよかったけど、今のベリーショートもめちゃくちゃ似合う。高校生のときと比べて、いや、年を取るごとに玲はなんだか自由で楽しそうに見える。
「……あたしさ」
少しためらうように、玲が口を開く。続きを促すようにあたしたちが頷くと、水を少し飲んでからぽつぽつと話した。
「あたしさ、前にも話したけど、昔はどうしてみんなと同じようにできないんだろうって悩んでたんだ。でも、今はもう平気。あたしはあたしでいいって思えるようになったから」
そう言い切った玲の顔は晴れやかで、あたしは自分のことのように嬉しくなってしまう。
「そうだよ。恋をする自由があるなら、しない自由だってあるはずなんだから。玲ちゃんが玲ちゃんらしくいられるなら、それでいいんだよ」
美和の言葉に、玲は照れたように笑った。恋に恋するタイプのあたしに玲の気持ちは正直よく分かんないけど、理解できないことがあったって友達でいられると思う。
「お話中失礼いたします」
いつもの調子で喋っていると、店員さんがあたしのナポリタンと美和のピザトーストを運んできた。立ち去ろうとする店員さんに、玲がドライカレーを注文する。店員さんは一礼して店の奥に消えていった。
「ごめん、あたしたち玲が来る前に先に注文してたの。お腹すいちゃって」
「いや、遅刻したあたしが悪いんだから気にしないで。冷めちゃうから二人とも先に食べなよ」
玲に促されて、あたしは両手を合わせてからフォークを手に取った。服にソースが跳ねないように細心の注意を払いながら、スパゲティを巻きつけて口に運ぶ。
トマトの酸味と、ピーマンの苦味。隠し味のほんのりした甘味。大きめに入ったウィンナが贅沢感あって嬉しい。家で作るときって、高いウィンナになかなか手が出ないんだよね。スパゲティは少し柔らかめだけど、それがかえってソースに合っている気がする。
「玲も食べる?」
取り皿も頼めばよかったかなとか考えながら、玲にお皿を向ける。玲は首を振って、何気ない調子で言った。
「てか、裕子前に会ったときもナポリタン食べてた気がする。昔はどっちかっていうと冒険するタイプだったのにね」
ぱちくりとまばたきをするあたしに構わず、玲の隣で美和も頷いている。
「そうだね。ほら、裕ちゃんって期間限定のものとか、販売機で売っているちょっと不思議な飲み物とか、そういうの真っ先に選んでたじゃない。同じものをずっと選び続けるのって、裕ちゃんにしては珍しいと思ってたの」
二人の言葉を反芻しながら、あたしは水を一口飲んだ。その瞬間、はたと思い当たって思い切りむせた。
「ちょっと、やだ裕子、大丈夫?」
玲が慌てて差し出してくれたおしぼりを受け取りながら、あたしはむりやり口角を上げた。笑えた、と思ったら今度は目から一粒涙がこぼれ落ちてしまった。
あの人と出会う前、あたしは別にナポリタンなんて好きじゃなかった。
だけどあの人はナポリタンが好きで、出会って間もない頃、まるで魔法のように服も口元も一切汚さずに食べるのが不思議でならなかった。美しく、でもおいしそうに食べる姿を見て、あたしは恋に落ちたんだっけ。
あの人にナポリタンのおいしいお店を教えたくて、気がついたらメニューで見かけるたびに注文するようになっていた。そうしてたら、あたしもナポリタンが好きになっていたんだ。
別れて、連絡先を消して、会うこともなくなって。もう点と点は交わらないと思っていたけど、決してなかったことにはならないんだ。あの人と過ごしたたくさんの時間が、確かに今の「あたし」を作っている。
「……さみしいな」
別れたことが今更のように胸にしみじみきてしまった。二人は何も言わないで、あたしの肩をさすってくれた。
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