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久しぶりに、一階に降りてみようかな……。
私は重たく錆びついた鍵を回し、自分の部屋の扉を開けた。
廊下には誰もいない。
私は左右を確認し、一歩部屋の外へ踏み出した。
足裏に伝わるフローリングの冷たさ。
軋む階段。
電気の付いていない下の階。
最後の一段を降り、家の中を見渡す。
自分の家のはずなのに、まるで見ず知らずの他人の家を探索しているよう。
「誰もいないの?」
好都合のはずだが、どこか心寂しくてそんな風に声を発した。
「翠月?」
呼んではみたものの、家にいられても困る。
「蒼太?」
出てこられても困る。
何を話せばいいかなんて分からない。
私は複雑な感情を乗せて、ため息を吐く。
リビングへ行く。
大きな四角いテーブル。
木製の椅子。
私は六つある椅子のうち、一つを手前へ引き出して腰を掛けた。
テーブルの上には何もない。
テーブルに両ひじを付き、一度顔を覆う。
強いラベンダーの香りがする。
両手を退けて、テーブルの上に視線を送る。
澄んだ透明の花瓶。
半分まで入れられた水。
鮮やかな紫の花々。
「瑠璃さん」
突然、正面から私を呼ぶ声がした。
聞き覚えのある声。
微かな嫌悪感を覚える。
視線を上げてみる。
向かいの席に、その子がいた。
「何?」
私は平然とした声で聞き返した。
その子は真っ直ぐに私の目を捉えた後、にこりと微笑んだ。
「ハーブティー、入れましょうか?」
その子の手元には透明なティーポット。
中にはすでに、ローズヒップティーが入れられている。
断ろうとして、息を吸い込んだ時、自分の目の前にハーブティーの入ったティーカップが置かれていることに気が付いた。
「ありがとう」
言いたくもないのに、今のこの状況ではその言葉を口にせざるを得ない。
私が諦めてティーカップの持ち手を摘んだ時、
「無理して飲まなくていいんですよ?」
蔑むような目を向けて、その子が私に言った。
「無理して感謝しなくても、いいですし」
追い討ちをかけるかのように、そうも言った。
その子は優雅にカップを持ち上げて、ハーブティーを口に運んだ。
見透かしているかのような表情に、確かな苛立ちを覚える。
私は黙ってカップから手を離す。
その子は目を細めて笑い、またハーブティーを口にする。
リビングが、さっきよりも狭くなった気がする。
続く沈黙。
兄弟ともうまく話せないのに、何故赤の他人と二人きりにならなきゃいけないのか。
退屈な表情を浮かべながら、私は椅子に座っている。
「私、瑠璃さんのこと、好きですよ?」
突然そんなことを言う。
その子は話を続ける。
だが何を言っているのか、私には理解ができない。
声すら聞こえない。
私の目を見ることなく、その子はまだ何かを喋っている。
いい加減にしてほしい。
「ねえ」
堪らず私は、無音の演説を断ち切った。
「何ですか?」
嫌な顔一つせず、その子は私の声に耳を傾ける。
この子は完璧。
それが嫌。
視界に入ると、自分らしく振る舞えない。
「同系色って、知ってる?」
敢えてその子としっかり目を合わせ、私はそう聞いた。
「ええ。それが何か?」
ハーブティーを飲みながら、その子は聞き返す。
「同系色って、素晴らしいと思わない?」
「ええ。そうですね」
鼻腔をくすぐるラベンダー。
「同系色は調和が生まれるし、統一感があって、まとまりが取れるの」
「そうですね」
甘酸っぱいローズヒップ。
分かってる。
これはただの嫌味だ。
私は冷めたハーブティーのカップを持ち上げ、口へ運ぼうとした。
「差し色って、ご存知ですか?」
カップに口をつける直前で、その子がそんなことを言い出した。
「それが、何か?」
ハーブティーを飲むのを諦め、私は聞き返す。
「確かに同系色は、そのまとまりの良さ故に、落ち着いた印象を与えてくれます」
「ええ。もちろん」
私は、その子の顔を凝視する。でもその子は私を見ようとしない。
緩やかに口角を上げ、どこか物悲しそうな表情を見せている。
「でも同系色の弱点は、物足りなさを感じてしまうこと」
「……」
シンクから水音。
「単調さを解決するために、差し色は、必要だと思いますよ」
勝ち誇ったような顔で、ハーブティーを飲み干すその子。
差し色になる色は、鮮やかな色。
華やかな色。
そして、その一色だけしか、その役割を担えない。
これは嫌味だ。
私は一口も飲んでいないローズヒップティーを、ソーサーの上に静かに置いた。
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