猫が姿を消したなら

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トイレの鏡はいつも人を冷静にさせる。 思えばあの時もそうだった。 ツイートが初めてバズった直後、トイレの鏡に映る自分はどこまでも他人だった。 中学2年、14歳。 教室の黒板に女性器のイラストを描き、その前で笑い転げる友人を盗み撮りし「こいつらと一緒にいるの恥ずい」とツイートした。 それは瞬く間に拡散され、あっという間に1万いいねを超えた。 ただあの文は嘘だった。 もっと近づきたかった。 癒着し、共存し、共に崩壊したかった。 それらの強欲な感情は腹の中で膨張し、恥ずかしい羨望に変わり、弱い俺の中で憎悪を育てた。 グループは平和だった。 いじめられているとか、陰口を言われているだとか。そういったものは皆無だった。 ただ、何となく感じるのだ。 「俺が居なくても誰も困らない」と。 互いに嫌悪感のない空間で俺だけが抱くこの感情はどんな爆弾よりも取り扱い注意だった。 もっと派手なことをしないと、おもしろいことを言わないと。 「替え」が現れてしまう。 そんな想像をすることすらも情けなかった。 ある日、不甲斐なさを払拭するため中学校では禁止されているスマホを俺は持っていったことがある。 「おい、見て、俺今日、スマホ持ってきてやった」 「うわ、まじかよ」 「お前やるやん」 友人達の視線が俺に集まり安心する。 しかし、2分後には話題は変わっていた。 「ほらこうやったら土井先生に似てるくね?」 調子乗りなやつがマジックで自分の顔にほうれい線らしきものを書き出し、ニヤニヤしてる。 どっと笑い声があがる。 0.5秒遅れてから俺も笑い、それ以降はスマホを持ってきても誰にも言わなかった。 絶望を知ったのは次の日だった。 「これ、飲んでみな」 そう言って渡されたのはいつも通り、そいつが使っている1リットルの水筒だった。 円になり一人一人飲む。 「まって、これジュースやん」 「おまえ、ジュースはあかん言われてるやん」 「大丈夫、わざわざ中身確認されることなんてないしな、お前らもやってみろよ」 その話題は次の休み時間にも続き、とうとう水筒の中身をジュースにすることがグループ内の流行りになった。 その瞬間から俺は孤独になった。 多数の人間に囲まれる孤独ほど惨めなものはなかった。 彼らは何も意識していない。 「俺」だから、とか。 でも、無意識の中にある差別、区別が視覚化したのがこの出来事だと思った。 悪意のない刃を向けられた時の対処法を「憎む」以外に知らなかった。 授業が終わり、「トイレ行こや」の掛け声でみなが集まる。 「ごめん、俺腹痛いから」そう言い個室に入るとスマホをチェックした。 今までに経験した事の無い数の通知だった。 さっき投稿したやつだ。 いいねは増え続け、何百ものコメントが残されていく。 「恥さらしで草」「普通にキモイわ」 否定的なコメントが圧倒的に多かった。 だが時々目に入る肯定的なコメントは凛太の心臓をわしずかみにした。 「なんか中学時代がなつかしいなー。こんな些細なことで笑えたもんな笑幸せの共有ありがとう」 「青春だな~。羨ましい」 「凛太~、先教室戻っとくからな」 普段ならその一言で嫌な汗が出る。 でも、今は違った。 感じたことのない幸福感が全身を優しく包んだ。 心拍数は上がり、十分すぎる程の酸素を体に送った。 生きてる。そうとすら思えた。 足音が聞こえなくなるのを待ってから、凛太は個室を出た。 その幸福感もつかの間のものだった。 鏡に映る自分を見た途端、先程までの興奮、高揚感は潮が引くようにスっと消えていった。 その代わりに目を出したのが「不安」だった。 つまり、凛太は冷静になれた。 投稿主が俺であることがバレたらどうなるのだろうか。 もしかすると何らかの犯罪になるかもしれない。 親にも確実に報告されるだろう。 幸い、このアカウントは「裏垢」と呼ばれるものでリアルな友達は誰1人フォローしていない。 震える手でもう一度スマホを取り出し、すぐさま投稿を消去する。 怖かった。全てが崩れてしまいそうで。 不安感に支配された体は冷たい汗を体内に放った。 今すぐ消さないと。 全てを消さないと。 アカウント消去画面へと移動する。 その時目に止まったのが、半日前の約10倍、1000人にも膨れ上がったフォロワー数だった。 「今の俺に1000人もの人が注目している」 その思想は脳内でドーパミンを出し、幸福成分を全身へと流し、アカウント消去を引き止めた。 狂った喜びは生ぬるい湯のように気持ちよく、全身を浸すにはもってこいだった。
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