猫が姿を消したなら

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「次の試合いつなん?」 酒気の帯びた田中の声は非常に不愉快だった。 凛太の前には痛い鮮やかさを放つカクテルが置かれている。 コップの縁に刺さるオレンジだけが俺の味方である気がした。 「まだ公表されてないんですけど、実は3ヶ月後にランカーと試合決まりました」 「なんやまだチャンピオンとは試合やらんのか?」 「ほんまはチャンピオンとのタイトルマッチの予定やったんですけど、大会の運営側が来年の夏頃に初のアリーナでの大会を開催するらしくて。8000人以上入る会場やからその時、客集めるためにタイトルマッチすることになったんですよ」 おぉーアリーナか! と予想以上に予想通りな反応の田中を蔑む。 気色悪い。今の田中を見ていると殺意が湧く。 こんなやつが死んだところで誰も気にしないだろう。強靭な不快感に体を貫かれ、誤魔化すように飲めない酒を流し込む。 「その時もスポンサーお願いしますね。絶対にチャンピオンになってベルト巻くんで」 自分の口から出たその言葉は先程までの不快感をゆうに越え、生理的嫌悪感を自らに打ち込んだ。 それは血流に乗り手指の先端まで送られ持っていたグラスを握りつぶした。 木でできたカウンターテーブルにはより深い茶色い雫が飛び散り、右手が猛烈に熱い。 オレンジのカクテルと混じった鮮明な赤はまるで2匹のベタが絡み合っているみたいだった。 ヒィとも、ワーとも取れる悲鳴を上げた田中と、僅かに肩を動かしたマスター。 その空間では俺だけが静寂だった。 「大丈夫ですか?」 直ぐに落ち着きを取り戻したマスターはカウンターの裏側から白いタオルを取り出し凛太に差し出す。 「割っちゃってすいません。弁償します」 「いやいや、全然うちは大丈夫です。そんなことより止血して下さい。このタオル使ってもらってかまわないんで」 先程までの熱は流れ出る血と共に体内から放たれた。 「すいません、ありがとうございます」 受け取り右手を包み込むと白いタオルがゆっくりと赤に染まっていく。 真っ白と真っ赤はどこか美しくて、凛太の中で「この美しさを作ったのは俺」という感情が産まれる。 「大丈夫か?キックボクサーって拳怪我してたら練習できひんのちゃん。タイトルマッチの前に次の試合で負けたらどーすんねん」 隣で騒ぐ害虫に視線を向け、「すいません、スーツ汚れてないですか?このくらいの怪我ならすぐ練習できますよ」と安心させる。 「そうかー」と納得したような、していないような相槌を打ち、「まぁ服は大丈夫やわ」と言う。 もう一度、今度は体ごと田中の方へ向け 「すいません」と頭を下げる。 視線の先には真っ赤なタオルがあって、俺から溢れ出た血で染まったそのタオルは俺以上の価値がある気がした。 「ええで、ええで。けどその手じゃもう飲まれへんやろ。今日はお開きにしよか」 田中は「ごめんマスター、会計頼むわ」と言いクレカを渡す。 「ありがとうございます。こんな終わり方ですいません」 店を出てから再び頭を下げる。 「おう、気にせんでええよ。それより次は11月12日やな。まってるからなー」 手を挙げ振り返ることなく駅に吸い込まれていく田中に小さく舌打ちをする。 マスターから貰った2枚目の白いタオルはまだその白さを保っている。 田中に追いつかないよう、15分ほどその場に佇んでから同じく駅へと向かう。 Twitter用の写真、大量に撮り溜めておくつもりやったのに フォルダを見返すとジントニックを持った自撮り、マスターの後ろ姿、オレンジ色のカクテル。それからファイティングポーズを取った田中の横で中指を立てる俺の写真。 溜息をつき、改札をくぐる。 揺れる電車の中で田中と俺のツーショットを選び 「スポンサー様との見に行った。本日は田中様、ありがとうございます。来週キャバクラ行きますねっ!あー楽しみ」と投稿する。
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