01

3/9

14人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
「温人さんのシャッター音、好きなんです」  撮影後、喫煙所で一緒になったモデルが、煙草の先に薄く付いた灰を落としながら、そう呟いた。白い煙越しに見える、完璧に脱色された金色の髪を掻き上げて煙草を咥えると、彼は唇の端から煙を漏らした。その仕草は何処か宗教画を彷彿とさせるような、荘厳さが漂っている。 「……光栄だな、君にそう言ってもらえるなんて」  俺は条件反射のように思い浮かんだ言葉を、滑らかに吐き出すと、煙草を咥えた。 「お世辞とかじゃないですから」  念を押すように言われると、自分がいかに社交辞令を受け流すような、素っ気ない返事をしたのか思い知らされる。俺は緩く頭を振ってから、改めて彼の細い筆先で描かれているような横蛾を眺めた。  海外の雑誌やハイブランドのランウェイもこなす彼――ヒョウは、この業界内で今では知らない者などいない。つい先日、ハイブランドのモデルに就任したことで、更に彼の存在は大きく拡大範囲を広げ、街中には彼が広告塔となるポスターで溢れ返っているほどだ。 「プライベートも撮って欲しいです」  真っ直ぐに向けられた言葉と視線に、思わず殆ど無意識に視線を下げてしまう。純日本人という色素の濃い眼差しは、相手を飲み込む勢いで、喰いかかってくる。俺はそんな彼が少し怖かったのかもしれない。指先で煙草のフィルターを弾き、灰を落としながら、俺は声を濁して言葉を探し、拾い上げる。 「勿論、俺で良ければ。日にちが合えばということになりそうですけどね」  そう笑みを浮かべて答えてみると、 「じゃあいつが空いてますか?」  と考える隙もなく食い下がられた。  これは本気だ。  俺はそう確信して、そうだなぁとお茶を濁しながらスマホを開く。日中の予定は有難いことに埋まっている。それに夜は汐と一緒に過ごしたい。  でもここまで食い下がられて無下にするのも、申し訳ない。  予定の確認をするふりをしながら、悪戯にカレンダーを弄っていると、スマホの画面上部にメッセージが浮き上がった。汐だ。  思わずそれをタップしてメッセージを開いた。どことなく、藁にもすがるような心地で。 『今朝はごめんなさい。  頑張ろうと思ったけど、眠くて耐えられなくなってしまいました。ベッドに運んでくれて、朝ごはんも用意してくれて、ありがとう。  今日は温人さんの好きなシチューにしようね』  汐のメッセージに、無意識に頬の力が緩む。ネジが半回転して、余白ができるみたいに。 「好きな人からですか?」  はっと顔を上げると、ヒョウが無表情のまま、こちらを伺っていた。その双眸には感情らしきものが浮かんでおらず、何を答えてもよさそうで、何を答えてもだめそうな雰囲気が漂っていた。 「いいですね、好きな人がいるって」  この子の口から零れる「好きな人」という単語が、あまりにも無機質で、この子の口には不釣り合いな言葉だなと、失礼なことをぼんやりと考える。 「……今日シチューなんです、俺の好物の」 「いいですね。全然食ってません、シチューなんて。カレーはどこでも食べられるけど、シチューは家でしか食べられませんよね」  言われてみれば、そうかもしれない。シチューというメニューを俺は殆ど見た事がない。改めて感心しながら、俺は煙草を咥えた薄い唇を眺める。 「食いに来ますか?」  何か理由があるわけでもなく、何となくそう誘ってみるのが良い気がして、躊躇いなく言葉が唇から零れていた。え? という少し面食らったように、ヒョウがこちらへと顔を向ける。その表情が、思った以上に幼いもので、俺は少しだけ驚いて、今手元にカメラがないことを悔やんだ。 「いいんですか?」 「ヒョウくんが良ければ。家に別の者と、彼の相棒のゴールデンレトリーバーが居ますけど」 「お邪魔でなければ、是非」  ヒョウは子どものような仕草で、大きく頷くと、煙草を灰皿に捻じり押し付けて火を消す。俺は何となく、幼い子どもを見ているような心地で頷き、汐に返信を打つ。 『汐、今日仕事で知り合った人を連れて帰る予定です。  シチューは外食では食べられない、と言っていたので、ご馳走したくなりました。』 『わかった。じゃあ、美味しいシチュー作ろうね。』  ぽこん、と愛らしいクマとウサギのスタンプが浮き上がり、俺は煙草の火先をゆっくりと銀の灰皿に擦り付けた。  細い紫煙が立ち昇り、俺はヒョウと連絡先を交換し、夕食の約束を取り交わした。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加