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部屋を出て寝室に入ると、電気も付けないままベッドにその身体を預ける。汐は身じろぐようにしながら布団の中に潜り込んだ。
「ごめんなさい、夜にこんなのあんま無いんだけど……」
声が咽喉に籠っている。もう少しで汐が眠ってしまう。俺はそれが何となく心細くて、彼の白く滑かな額を撫でてから、薄い唇に口づけた。応えるように啄んでくれる汐の唇が、心底愛おしい。頬に触れれば、少し温くなった体温が、微温湯のように漂っている。
「起きたら顔出すから、先に食べてて」
そう言われて意識を手放す寸前の、汐の唇を食べる。聞き分けの悪い子どもをあやすように、汐の小さな舌が、俺の唇を撫でて、すぐに引っ込んだ。
「おやすみ、汐」
二つの器に注がれて、柔らかな湯気を立ち昇らせているシチューを、食卓テーブルまで運ぶ。来客があるからと、丁寧にランチョンマットまで敷かれているそこに静かに置くと、俺とヒョウは向き合う形で席に着き、手を合わせた。
足元ではヒュミが同じように、用意された夕食のドッグフードを食べている。
テレビでも付けようかと思ったけれど、それもなんだか粗雑な気がして、ブルートゥースで繋いだスマホから、汐が良く仕事の時聴いているという洋楽を選んだ。スザンヌ・ヴェガの「孤独」が遠慮がちに壁を這うように、部屋に流れ始める。
「大丈夫なんですか? 汐さん」
ひとくち食べて、ヒョウがリビングの出入り口へと視線を投げた。その眼差しには汐を思いやるような、痛みの色が宿っており、俺は「大丈夫だよ」と頷いた。
「汐の意思に関係なく、眠ってしまうんだ。でも他に身体の何処かが悪いわけじゃないから」
俺は繰り返し汐に言い聞かせ続けられてきた言葉を思い出しながら、頭の中の彼の口調を真似て告げる。言葉が重くならないように、明日の天気の話をするように、心を込めずに。
「ナルコレプシーですっけ?」
久し振りに耳にした単語に、俺は少しだけ驚いた。俺はその横文字を上手く舌に乗せることができなくて、避けているから。
「よく知ってるね」
「前にテレビで見たことあって、覚えていただけですけどね」
そう言いながら切り分けたバケットの端を千切って、クリームシチューにゆったりと付ける。とろとろと纏わりついたそれを一口食べて、ヒョウは「うまい」と呟き噛締める。
しみじみとしたその声音に、夕方のバス停で二つのシチューの素を得意気に見せては笑う、汐の笑顔を思い出した。子どもみたいに、まるでとっておきの秘密を打ち明けるように、無邪気に笑う汐が、絶え間なく心の内側で笑う。
――これとこれを、半分ずつ入れると美味しいんだ。
「シチューは、二つのメーカーを組み合わせて使うと、美味しいらしいよ」
汐の笑顔を思い出しながら、少し得意気に告げてみる。俺が作ったわけじゃないのに。
「へえ、なるほど。じゃあこれは汐さんのオリジナルってことですか?」
「そうなるね」
なんだか誇らしい気持ちでそう頷くと、ヒョウが少しだけ微笑んだ。
「汐さんが好きなんですね」
ヒョウの言葉に少しだけ心臓が動いた。人に、この人が好きだと思う気持ちを見られた瞬間は、いつも俺を緊張させる。隠していたつもりもないから、気付かれてしまうのは当たり前かもしれないけれど、言葉にされるとどきりとしてしまう。
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