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 こんなはずじゃなかった。  そう眠そうな瞼を擦りながら起きてきた汐は、帰り支度の済んだヒョウを前に、辛そうに唇を曲げていた。まるで、年上の親戚が帰ってしまう事を嫌がる子どものような顔で。  そんな汐の顔を見たヒョウは、今までで一番優しそうな笑みを宿し、 「また、ご飯食べに来てもいい?」  と、俺ではなく汐に尋ねた。ヒョウの言葉に、汐は大きく頷くと、 「勿論だよ! 鍋しよう。暑くなる前に」  そう言って機嫌を取り戻したような幼い笑顔で笑った。汐は両手でヒョウの右手を取ると、約束だからね、と小指と小指を絡めた。 「指切りげんまんとかって、今でも有効なんですね」  物珍しいものを見たかのように、ぽかんとヒョウが呟く。汐は「当たり前だよ」と大きく頷いた。 「俺はいつも約束をする時、こうするんだ」  そう言いながら軽く手を揺する。ヒョウと汐の繋がった手が、同じリズムで揺れている。汐の細く白い手首が、長袖の裾から見えていた。筋が真っ直ぐと張った、薄い手首の内側には、青い静脈がうっすらと浮き上がっていた。 「……それじゃあ、また」  ヒョウは静かにそう呟くようにして、踵を返した。扉を開くと、一度だけ首を傾げるようにして振り返り、浅い目礼をする。俺と汐はそれにゆるく手を振って、扉が閉まり、ヒョウの足音が短い外廊下を去って行くのを聞いていた。徐々に遠退いて行くその音は、夜が訪れる音に似ている気がした。 「色んなお話できた?」  顔を向けると、汐が微笑むようにして俺を見上げていた。 「ああ、仕事じゃない事話せたよ」 「良かった」  そう言いながら俺の腕に抱き着いてくると、汐の体重が柔らかな心地で覆い被さってくる。俺はよろけないように、足首に力を込めて、その場に立ち尽くす。もう何百年も動かない樹のように、汐を支える。 「次はきっと仲間に入れてね」 「汐が寝なかったらね」 「あ、意地悪だ」  そう言うと汐は笑って、俺の腕を引いた。お菓子を買ってとねだるみたいに引かれて、身を屈めると、汐の柔らかい唇が押し付けられる。乾いた薄い皮膚で覆われた唇の下を、血が通っている。そんな事を思わせる程、汐の唇は温かいと、いつも思う。 「俺もシチュー食べようかな」 「じゃあ俺ももう一杯一緒に食べようかな」  そう言うと、汐は「本当に?」と嬉しそうに笑った。 「ヒュミも食べる?」 「ヒュミはだめ。おやつで我慢な」  そう言いながら二人でリビングへと戻る。ヒュミの軽やかな床を微かに引っ掻く爪の音が、響いていた。 1話目 fin.
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