面接

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面接

*下記ストーリーは、日本の実在の俳優である玉木宏さんとは、まったく関係がないことをここにお断りいたします。 ふう。 面接室を出ていくトレーナーを着た中年女性の背中を見ながら、僕はため息をついた。疲れたな。まだ、半分ぐらいか。 数名の募集に対して、応募してきた人数は百名超。その人たちを、たった一日でたった一人で面接するって言うのにそもそも無理がある。まあ、やるって言ったのは僕なんだけど。 僕は椅子を立って、伸びをした。 そこに、まるでその行為を糺すかのような、低くて張りのある声がドアの外から聞こえたのだった。 「失礼します」 「あ。は、はい。どぞ」 否が応でも緊張を強いられるようなその声に、僕はちょっとどもりながら、急いで椅子に座った。 入って来たのはこぎれいなスーツを着た長身痩躯の中年男性。書類カバンを左手に持ったままドアの前で足を揃え、こちらに向かって上半身を折った。その角度、きっちり45度。 「おかけください」 「はい。よろしくお願いします」 僕は目の前に座ったこの男に少したじろいだ。 面長なその顔には、大きな目の強い眼光。太い眉。長く通った鼻筋。強い意志の力が表情全体から感じられる。そして、薄い唇には余裕を感じさせる微笑。 僕は応募者のファイルから男の履歴書を抜き出した。 <磨器宏 54歳> 僕と同い年だ。 「磨器宏さんですね。まきさん。珍しい苗字ですね。ピアニストに同じ苗字の方がいらっしゃいますが、ご親戚かなんかですか?」 「磨器という姓は日本に十人しかいないそうです。ピアノの磨器めぐみは私の妻になります」 磨器さんは、表情一つ変えずそう答えた。よく聞かれることなのかもしれない。奥さんだという磨器めぐみは、日本のみならず世界を股にかけて活躍する有名なクラシックのピアニストだ。 「奥様の著書、以前読ませていただきました。ゴミだらけの部屋に住むぐうたらな音大生を世界的なピアニストに導いた恋人はじゃあ」 「あ。それは私です。はは」 すごい人が来てしまった。 僕は磨器さんに断り、改めて履歴書を端から読み始めた。 履歴書にはすべて目を通したつもりだったが、これは初見に思えた。何かのはずみで飛ばしてしまったのかもしれない。僕は自分のミスを恥じた。そして、この目の前の磨器さんの経歴に恐れおののいた。 「プラハ国際指揮者コンクール第一位。ですか」 「はい。宝塔音大の指揮科を卒業してすぐにチェコに向かいました。まさか取れるとは思わなかった。我ながら驚きました」 磨器さんは少し上を向いて懐かしそうにそう言った。彼の表情が和らいだ。 「しかし、その後、防衛大学に入り直されてる」 「ええ。国防について思うところありまして」 「そして自衛隊に入隊。海上自衛隊ですね」 「ええ。潜水艦に乗っていました」 「ふぁあ」 「どうしました?」 どうしたもこうしたもない。 「こういう言い草は失礼を承知なんですが、作り話ではないですよね」 「あはは。そう言われるだろうと思って、証明書等は揃えてあります」 磨器さんはカバンから書類を出そうとしている。僕はそれを制した。 「それには及びません。すみませんでした。続けましょう。磨器さん、せっかく活躍されていた自衛隊もその後、お辞めになってますね」 「はい。辞めてその筋の世界に入りました」 「どうしてまた。いや、伺ってよいことなのかはわかりませんが」 「世の中は杓子定規にとらえられるきれいごとばかりの場所ではありません。人には言えないそういった仕事を請け負う人たちもいる。その世界を知りたかった」 「そうですか。でも」 「はい。足を洗いました。妻が妊娠しまして、それを機に家庭に入りました。今は専業主夫です。子育てと妻の心身のフォロー。家が二人にとって安らぎの場になるように心を砕いています」 まっすぐこちらを見据える目が澄んでいる。この人には曇りがない。 「それで、ああ。お子様が大きくなって手が離れたんですね」 「はい。娘にはうるさがられることも多くなっちゃいまして」 僕は肝心の質問に移った。 「磨器さん。なぜ、この会社を志望されたんですか?」 磨器さんは、その質問を待っていたとばかり微笑みをたたえながら話し始めた。 「私は世の中を知らなすぎる。いつまでも青二才です。できるだけたくさんの世界を知りたい。世の中には無限の立場と生き方がある。私はそれを知らないで過ごしていくのが耐えられなかった。しかし、人間の寿命は有限。私も歳です。時間がない。短い時間で沢山の立場と生き方を経験できるとすればどんな仕事があるだろう、と思ったときにこちらの募集を知り、今回の選択に至りました。村井さんの演技にはいつも感服しています」 ここはカメレオン俳優と呼ばれる僕、村井祐一が作ったタレント事務所だった。今回は、中高年の逸材を求め、あえて演技未経験者に限っての募集をしていたのだ。 「僕の演技をご覧になってくれてたんですね。こちらこそ光栄です。少し読み合わせをさせていただいてよろしいですか」 「はい」 僕は、台詞の書かれたプリントを磨器さんに差し出した。 「舞台は駅の立ち食い蕎麦屋さん。私はクレイマー。磨器さんは、そこの店員です。僕が蕎麦出汁がぬるいのに文句をつけるところから始めます。いいですか?」 「はい」 そう答える磨器さんの表情が喜びに輝いている。
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