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第329話
小さい頃の鈴は近所の子たちと剣の練習だと言ってよく棒きれを振り回していた。戦争の真っ最中だったので余計に、いつか自分たちも戦争に行かなくてはならないのではないかと思っていたというのもある。
そんな事情を話すと三人は今度は悲しげに視線を伏せてしまう。
「でも結果的に私は何もせずとも千尋さまの剣が矢を勝手に弾いてくれましたし、加護の中から矢が飛び出して行ったので事なきを得ました」
「加護の中から矢が飛び出した?」
「そうなんだ。鈴の周りに薄い膜みたいなのが出来たと思ったら、そこから真っ直ぐ空に向かってでかい矢が放たれたんだ」
「……怖すぎませんか、その加護」
「怖いね。一直線に空に向かって飛んだんだろ? それって前に楽が言ってたみたいな奴が発動したって事なんじゃないのかい?」
「前に楽さんが言ってた事?」
「ほら言ってたろ? 千尋の加護は追撃まで出来るはずだって。今頃地上に矢を放った奴は千尋の矢を受けたんじゃ……」
それを聞いて鈴は青ざめた。次の王の候補に上がるような龍の追撃など受けたら無事では済まないのではないだろうか。
けれど心配したのは鈴だけのようで、雅は「便利だね」などと言っているし、弥七と喜兵衛は顔を見合わせて「これから気をつけような」などと言っている。
「み、皆さんどうしてそんなに落ち着いているのですか!?」
「いや、慌てたって仕方ないだろ? それに矢を放った奴は間違いなくあんた達を狙ったんだ。それぐらいされてもおかしくは無いさ。それとも鈴は大人しく殺されたかったかい?」
「そ、そうは思いませんが……そこまでしなくても、とは思います」
「鈴にはちょっと残酷かもね。でも千尋も言ってたろ? こういう事があった時の為にあんたにその加護をつけたんだ。あいつがもしも今地上に居ないと分かったら、あっちは何を仕掛けてくるか分からない。でもあんたのその加護が発動した事であっちはよく分かっただろうさ。たとえ千尋がここを離れていてもここには千尋の加護があるってな」
「そうだぞ、鈴。もしかしたらお前のおかげで地上は助かったかもしれないんだ。もちろん俺もな」
「姉さんと弥七の言う通りですよ、鈴さん。そりゃ穏便に済ませられるのが一番ですが、龍の力で地上に何かされたら地上の生物はひとたまりも無いですから」
「……そうですね……」
これも花嫁の仕事なのかもしれない。そう思うと少しだけ心は落ち着いたが、やはりそう簡単には割り切れない。
「お墓を作ろうと思います。見たことも無い方ですが、自分の為にも」
「いいんじゃないか。それであんたの心がちょっとでも慰められるんなら。それにどんな奴か知らないけどあんな事しでかすんだ。禄でもない奴だろうからね! 誰か一人でも弔ってくれる奴が居たら慰めにはなるだろうさ」
雅はそう言って鈴を抱きしめてくれた。
その後、とりあえず起こった事を千尋に知らせるために部屋に戻ると、千尋から預かっている皿の上にノートが届いていた。
「千尋さま!」
部屋を出る前には無かったので、きっと今送ってくれたのだろう。
鈴は急いでノートのページをめくると、そこには走り書きで『心を落ち着けて深呼吸を。それから地上を守ってくれてありがとう』と書かれている。
「千尋さま……」
鈴はそのノートを抱きしめて言われた通り何度も深呼吸をしたら少しずつ心が落ち着いていく。
この加護はどうやら使われると千尋にはすぐに分かるようだ。もしかしたら千尋は体調を崩してなどいないだろうか? 突然不安になった鈴はすぐさまノートにお礼と先ほど起こった事、それから千尋の体調について書き込んで皿の上に乗せた。
すると、ノートは次第に輪郭がぼやけていくように消えてしまう。
それからしばらくしたら今度はポケットが暖かくなる。何事かと思ってポケットから鏡を取り出すと、鏡が淡く光っているではないか。
「千尋さま!?」
『ああ、泣いてはいませんね。安心しました。でも驚いたでしょう? 大丈夫ですか?』
大丈夫か? と聞いてくる千尋の言葉にじんわりと涙が滲む。あんなのを目の前で見てしまって、もしかしたら緊張の糸が張り詰めていたのかもしれない。
「大丈夫だと思っていたのですが、千尋さまを見て何か急に――ごめんなさい」
心配をかけたくないのに今にも溢れそうになる涙を袖でこすった鈴に、千尋はいつものように笑顔を浮かべる。
『私の前では我慢しなくても良いんですよ。怖かったでしょう?』
「わ、私が怖かったというよりも、お相手の風龍はどうなってしまったのでしょうか?」
『ああ、鈴さんは相手を憂いて悲しんでいるのですか。そうですね……伝えずにいようと思っていたのですが、鈴さんにはその方が酷ですね。私の矢は相手の急所を絶対に外しません。先ほど亡くなったと連絡がありました』
「っ……そうですか……」
やっぱりだ。千尋を相手にして敵うわけが無いのだ。それなのにどうしてあんな事をしたのだろう。誰か止めてくれる人は居なかったのだろうか。
会ったことも無い龍が何だか不憫で仕方なくて鈴が俯くと、そんな鈴に千尋が続ける。
『彼は罪人で都からの追放を言い渡されていた方です。都にはもう二度と足を踏み入れる事は許されない人でした』
「そう、なのですか?」
『ええ。禁忌と言われる事をしでかしたのです。追放先で何があったのかは分かりませんが、都からの追放は人によっては死罪に値します。それほど都の外は過酷なのです。今回の事は誰かが彼に何らかの取引をもちかけたのではないかと考えています。彼はそれを受け入れた。恐らくその時点で死も覚悟していた事でしょう』
「どうしてそんな事……」
『私には少しだけ彼の気持ちが分かりますよ』
「え?」
あまりにも意外な千尋の言葉に鈴が顔を上げると、鏡の中の千尋は悲しげに微笑む。
『生きる意味が見つからなかったのです。ただ毎日を淡々と過ごし、大切な物や人も無く悠久の時を生きるというのはとても過酷です。もしもどこかで死を与えられたら、以前の私もきっと喜んで手を貸したでしょう。もう一度生まれ変わり、次こそは平凡でも幸せだと思える毎日を暮らしたい。それほどに自分の人生に嫌気がさしていたのですよ』
「……千尋さま」
鈴が千尋に初めて会った時、怖いと思った。儚げな笑みの後ろに隠された底知れぬ深い闇に怯えたのだ。鈴がそれまで色んな人に向けられた視線と千尋が鈴を見る目は全く違った。何の感情もない機械のような視線に鈴は戸惑ったのをよく覚えている。
きっと千尋はあの目でそれまでの人生をどうにかやり過ごしてきたのだろう。心の中でこんな事を考えながら。
「今は……生きる意味は見つかりましたか?」
神森家を攻撃してきた龍にもその意味さえ見つかっていれば、あんな事にはならなかったのかもしれないと思うとやるせなくなる。
鈴の言葉に千尋は穏やかに微笑む。
『もちろん。あなたや雅達、そして地上の生物たちの行く末。その全てが今の私の生きる意味です。何かを護りたいと強く願えるようになった事こそ、私の最大の喜びで私の最大の幸福なのですよ』
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