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第330話
それを聞いてようやく鈴は少しだけ笑うことが出来た。そしてついさっき雅に伝えた事を千尋にも伝える。
「風龍さんは私なんかに同情されても嬉しくないかもしれませんが、彼のお墓を作ってもいいですか?」
彼はこの神森家を襲った張本人だ。きっと鈴がしようとしている事はただの同情でしかなく、自分の心を守るための偽善に過ぎない。
そんな鈴の後ろめたい心を察したのか、千尋はゆっくりと頷いた。
『同情の何がいけないのですか? 同情というのは憐れむこと、可哀相に思うことです。それは思いやりの一種ですよ。誰かの事を一瞬でもそんな風に思ったという時点であなたはその人の人生を垣間見たということです。中には相手を見下すために憐れむ人も居るでしょう。ですが、それもまた相手の生き方に触れてしまったという事です。その時点でその人とは無関係ではいられなくなる。あなたの中に風龍は生き続け、これからのあなたの人生に影響を及ぼす。誰かをどんな形でも思うという事は、そういう事です。今回の鈴さんの経験があなたにとって良い作用を及ぼすか悪い作用を及ぼすのかは誰にも分かりません。ですが、風龍からすれば見も知らない誰かが、行ったことも無い土地で弔ってくれた事をきっと喜ぶと私は思いますよ』
静かな千尋の言葉は鈴の中にすんなりと染み込んできた。
千尋の落ち着いた声色と鈴を気遣う優しい眼差しに鈴は目を閉じる。
「……ありがとうございます、千尋さま。地上に下りてきた龍があなたで良かった。あなたとの未来を選んで本当に良かった……」
思わず口からついて出た言葉は鈴の心の奥深くから出てきた言葉だ。千尋を愛し始めた時からずっと思っていた事だけれど、こんなにも心を込めて言えたのは初めてかもしれない。
『……何だかいつも以上に胸に響きますね。ありがとうございます。いつも心を言葉にして伝えてくれて』
耳の良い千尋には鈴の言葉の裏表なんてすぐに聞き分けてしまうけれど、今回もちゃんと伝わって良かった。
鈴が微笑むとそんな鈴を見て千尋も微笑んだ。その笑みはもう昔のように怖くはない。きっと千尋の心も本当に変わったのだろう。
「千尋さまはお墓はどこが良いと思いますか?」
気を取り直してそんな事を聞く鈴に、千尋は嫌な顔一つせずに答えてくれた。
『そうですね。風龍なので、風の通る所が良いのではないでしょうか。あの丘の上とか』
「名案です! あそこなら見晴らしも風通しも良いですし、いつもお花の香りがしていますもんね!」
『ええ。そちらへ戻ったら私も手を合わせに行きましょう。彼の遺品などは何もありませんが、思いを形にするだけでも随分違うと思います』
「はい!」
千尋は本当に心が広い。自分の屋敷が狙われてもこんな風に敷地内に狙った相手の墓を作る事を許してくれるのだから。
それどころか千尋も一緒に手を合わせてくれるという。千尋が一緒に手を合わせてくれれば、きっと風龍も浮かばれるに違いない。もしも風龍が千尋の言ったような事を思いながら生きていたのだとすれば、長い虚無に終わりをもたらしてくれた千尋に感謝すらしていたかもしれないのだから。
「千尋さま、お話を聞いてくださってありがとうございました。ところで千尋さまのお体は大丈夫ですか? 角は出ていないようですが……」
すっかり鈴の心を吐露して終わりそうになってしまったが、鈴が一番心配しているのは千尋の体調だ。
番の加護というものがどんな風に千尋に作用するのかは分からないが、もしも千尋が体調を崩すようであればこれまで以上に気をつけて過ごさなければならない。
『私の体調ですか? 何もありませんよ。加護はもうあなたの物ですから私には使われたという勘という名の報せしか届きません。むしろ鈴さんの方が心配です』
「私ですか?」
キョトンと首を傾げた鈴を見て千尋は苦笑いを浮かべた。
『ええ。加護はもうあなたの物です。つまりあなたの力を消耗するのですよ。いえ、厳密にはあなたの中にある私の力、と言った方が正しいでしょうか』
「私の中の千尋さまの力……?」
何だかよく分からない鈴に千尋はおかしそうに肩を揺らして言った。
『あなたにお約束していた本をいくつか送りますね。子どもが一番に習う龍の身体の基本についての本なので、あなたでも読めると思います』
「ありがとうございます!」
『ええ。そこには番の加護の話も載っているので読んでみてください。それから少し注釈をしておくと、龍というのは人と違って繁殖行動を隠すべき事だとは思っていません。なのでその……戸惑ってしまうような絵や表現があるかもしれませんが、そこは許してくださいね』
千尋の言葉に鈴はゴクリと息を呑んで頷いた。そんな鈴を見て千尋はまたおかしそうに笑う。
『そんなに身構えなくても子ども向けなので絵も可愛いですよ。龍には定期的に発情期があるので一番に教えておかないと危険なのです。龍という生物はほとんどの生物の能力を兼ね備えている。理性を伴う発情期はどうしようも無いほど辛いものです。なのでそういう本があるのですが、鈴さんはもしかしたらびっくりしてしまうかもしれませんね』
それを聞いて鈴は覚悟を決めて拳を握った。
「いえ、いつかの為に今の私にこそ必要なものだと思います! 有り難くお借りします!」
『そんな身構えるほどの物ではありませんし、それは鈴さんに買った物なので差し上げますよ。――少し元気になりましたか?』
「はい。本当にありがとうございます、千尋さま」
『どうしたしまして。と言いたいところですが、私も元気を貰ったのでお礼を言わなくては。それから五日後からいよいよ本格的に楽の裁判が始まります。あちらの出方次第ではもしかしたらすぐにそちらに戻れないかもしれません。その間の屋敷と地上の事を、全てあなたにお任せします。どうか地上と雅達の事をよろしくお願いします』
そう言って千尋は深々と鈴に頭を下げた。千尋に頭を下げられたのはこれが初めてだ。驚いて息を呑んだ鈴の声に千尋は頭を上げて笑う。
『ちなみに龍が頭を下げるのは、心から尊敬している相手に対してだけです。鈴さん、頼みましたよ。それから最も重要なのはあなたの身はいつでも一番に守ってくださいという事です。あなたが居ないと私はまた生きる意味を失ってしまいますから』
「はい。自分の身も護ります。どうか千尋さまもお気をつけて。また連絡しますね!」
そんな事を聞いたらいつも以上に気合が入る。鈴が胸をドンと叩いて言うと、千尋はそんな鈴を見ておかしそうに声を出して笑った。
『なんて頼もしい花嫁なのでしょう。これで心置きなく私も戦えそうです』
「大丈夫です。千尋さまは勝ちます! 千尋さまのお帰りを待っていますね。それから楽さんにも帰ってくるのをお待ちしていますとお伝えください」
『ええ。必ず伝えます。きっと喜ぶと思います。それでは、また寝る前に』
「はい!」
千尋が鏡を閉じたのを確認して、鈴もまた鏡を閉じてそのまま寝台に倒れ込んだ。ホッとしたからか、何だか身体が怠い。
「なんだろ……すごく眠いな……」
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