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第335話
そう言って千尋が人の姿になって壇上に戻ると、怯えて小さな龍に戻ってしまった楽を抱え上げて撫でてやる。
「楽、そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。ほら、これを持って雅達に報告してきなさい」
千尋が懐から取り出した鏡を楽に渡すと、楽は無言でそれを受け取って短い腕で涙を拭い、千尋から飛び降りて一目散に流星達の元へ走っていく。
「これで一仕事完了だね。王はじきに引きずり降ろされる」
「だといいのですが。裁判官、閉廷のお時間ですよ」
千尋の言葉にそれまで固まっていた裁判官がようやくあわあわと動き出す。
「こ、これにて閉廷! 解散! 千尋! 羽鳥! ちょっと話がある!」
裁判官が青ざめて早口で閉廷を告げ、幕が下りるなり上方から飛び降りて来て千尋と羽鳥に駆け寄ってきた。
「おい、今の話は本当なのか!? 原初の水を初が盗んだと言うのは!」
「初だけじゃないよ。千眼、それから謙信も仲間だ」
「どういう事なんだ! 今回の裁判は楽のただの年齢詐称だろ!?」
「そうです。表向きは。ですが楽の年齢詐称の裏には私が地上に下りるきっかけになった事件があるのですよ」
「はあ!?」
「それを僕はずーっと調べてたんだよ。あいつら胡散臭い動きずっとしてたからさ」
そう言って羽鳥は歌劇場の外を指差す。そんな羽鳥に裁判官は愕然とした顔をしてその場に膝から崩れ落ちた。
「なぁ、もしかしてそろそろ王は変わるのか?」
「でしょうね」
「あと、千尋の番が人間っていうのも本当なのか?」
「ええ、本当ですよ。とても可愛い方なのです。鈴さんと言うのですが、料理とお菓子がそれはもう上手で――」
尋ねられて思わずいつものように鈴の自慢をしようとした所に羽鳥から肘で小突かれた。
「千尋、聞こえてないから」
「それは残念です。では私達はこれで。行きましょう」
「だね。はぁ~僕の出番あんまり無かったね」
「そんな事はありません。あなたのおかげで初が正体を現したのですから」
あそこで初が龍に戻るとは流石の千尋も思ってはいなかったが、絶妙な間で羽鳥が初を煽ってくれたからこそ、それを名目に初の力を削ぐことが出来た。次に初が目を覚ますのが何百年後になるのかは分からないが、その頃にはきっと全てが終わっているだろう。
「まぁでも一人減っただけでも大分楽になるのは確かだよ。あとは千眼と謙信だ。王はもう駄目だよ。これだけの目と耳があったんだ。言い逃れは出来ない」
「ええ。そうでしょうね」
羽鳥の言う通り、王は原初の水について否定も肯定もしなかった。ましてや初が楽に襲いかかろうとした所を皆が見ていたのだ。それを止めようとせず、それどころか庇おうとすらした王の威厳など、もう無くなったにも等しい。
今頃街には既に号外が溢れ、王への不信感を皆が募らせているだろう。
千尋と羽鳥はまだ膝をついて項垂れる裁判官を残し、そのまま舞台裏に歩いていった。
♥
楽から待ちに待った連絡があったのは、皆が夕飯を食べようかどうしようか考えていた頃だった。
「楽さん!」
「楽!」
「お前、どうして龍の姿なんだ?」
「まさか何かあったのか!?」
鏡に映った楽は小さな龍の姿で、その姿は怯えているかのように震えている。
「楽さん、大丈夫ですよ。何か怖いことがあったのですか?」
出来るだけ楽を刺激しないよう鈴がゆっくり話すと、楽は目をこすって頷く。
「目をこすってはいけません。バイキンが入ってしまいますから。ハンカチを誰かにお借りして、それで拭いてください」
確か楽が地上に降りてきた時にもこんな会話をしたなと思いながら楽に言うと、楽はまた無言で頷いてそのままどこかへ行ってしまう。
「あいつのあんな態度……絶対に何かあったに違いないよ!」
憤慨した様子で声を荒らげた雅に鈴も弥七も喜兵衛も頷く。
楽はまだ子どもだと千尋は言うが、人の姿をしている時は鈴や菫と何も変わらない。ところが龍の姿に戻るとやっぱり楽はまだ幼く、本当に子どものようだ。
「楽さん、大丈夫でしょうか?」
「どうだろうな……しかしああやって見ると、やっぱ楽はまだ子どもなんだな」
「まぁそれは人の姿の時でもそうだよ。ご飯のおかわりも尋常じゃないぐらいするし、お菓子大好きだし、この間なんて居間でお腹出して寝てた」
「そうなのですか?」
「ええ。本読んでてそのまま寝ちゃったみたいです。まるで子どもが絵本読んでそのまま寝ちゃったみたいに」
喜兵衛が何かを思い出したかのように笑うと、それを聞いて鈴も思わずそんな楽を想像して笑ってしまった。
「そうなのですね。でもそう考えたら楽さんは年齢の割にしっかりしてます!」
「だね。龍ってのは皆あんななのかね」
種族が違うとどうやら年齢の重ね方も随分と違うようだ。何だか楽を通して龍の生態についてまた一つ詳しくなった鈴だったが、そこへようやく楽が戻ってきた。その後ろからひょいっと息吹が鏡を覗き込んでくる。
「楽さん! 息吹さまも!」
『よ! ちょっと楽が怯えちゃって自分で話せないって言うからさ、私から結果だけでも伝えとくよ。楽は無罪って訳じゃないが、これからも千尋にくっついてそっちに居ろって事になったよ。これからも千尋の為に働けってさ。かなり減刑されたんだぞ!』
「そうでしたか! 楽さん、おめでとうございます!」
思わず鈴が鏡に近寄って言うと、楽はようやく少しだけ笑って頷く。ただ気になるのは一体楽に何があったのか、だ。
「楽おめでと。鈴があんたにゼリー作ってたから、家帰ったら千尋とあんたと家主で食べるんだよ」
『ゼリー……? あんず味?』
ゼリーと聞いて顔を上げた楽の目に今度は小さな光が宿った。
「はい! 楽さんが美味しいと仰っていたので、朝から市場にあんずを買いに行ってきました! 今日のは甘いですよ!」
『ほんと? ありがと……』
「いいえ、どういたしまして。落ち着いたらまたお話聞かせてくださいね。それからちゃんと食事と睡眠はとって、お水も大事ですから千尋さまにお願いして――」
「鈴、あんたそれじゃあ楽の母親だよ。楽、皆待ってるから早く帰ってくるんだよ」
何だか心もとない楽を見て思わず心配になってしまって身を乗り出すのを雅が苦笑いして止める。そんな鈴に楽も苦笑いだ。
『うん』
「そうだぞ。お前の仕事山程残してあるからな! 帰ってきたらまずは靴入れの修理だぞ!」
「それから小麦粉がもうあんまり無いんだ。戻ったら弥七と一緒に買いに行ってきてほしい」
『うん!』
皆に用事を言いつけられても楽は嫌な顔をせずに、それどころか嬉しそうに口を開けて笑った。そこでようやく楽の震えが収まっている事に気づいた鈴が微笑むと、楽はバツが悪そうにそっぽを向く。そんな楽に鈴は言った。
「それから楽さん、菫ちゃんがお嬢様と書生のお話の最新刊を持ってきてくれました。「早く帰ってきて読みなさいよね。そしたら感想を英語で書いて直接持ってきなさい」だそうです」
『はは! うん、分かった……皆、ありがと』
「皆で待ってますからね!」
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