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第482話
そう言って雅は猫に姿を変えて廊下を走って行く。
「鈴ちゃん、私の言った通りだったでしょう?」
「……はい。身を持って体験しました……」
「これからもっと地獄が待っているわ。子どもは本当に、本当に何をしでかすか分からない。私も夜中に何度も菫の吐瀉物を顔面に浴びてね……」
何を思い出したのか、マチの表情がふと引きつったけれど、その顔に負の感情は一切なくて、あるのはただ愛情だけだ。
「き、肝に銘じます」
「ええ。それからが子育ての本番よ。幸いここには皆さんもいるから辛いと思ったら、我慢しないでちゃんと皆を頼るのよ」
「はい!」
鈴は千尋が抱いている千隼の手を軽く握りながら頷いた。
これからどんな毎日が訪れるのだろう。期待と不安が胸を過る。そして何よりも千尋と一切の連絡が絶たれるというのが一番不安だ。
千隼が生まれた翌日、千尋が言っていた通り色んな人達が挨拶にやってきたけれど、その殆どは千隼に会いに来たというよりも、千尋への感謝を告げに来た人たちばかりだった。
節子達は子どものように泣きながら千尋と雅に何度も何度も頭を下げ、今までの事を感謝し、そして別れを惜しんだ。
そんな光景を離れた場所から千隼を抱いて見ていた鈴は、目頭に浮かぶ涙を拭って千隼に話しかける。
「千隼、あなたのパパはとても偉大な人なんだよ。本当に本当に凄い人。あなたにパパのような生き方をして欲しいとは思わない。でも、その事をいつまでも忘れないでね。しばらくパパは私達を置いて都に戻ってしまうけど、いつか必ずまた一緒に暮らせるから。パパの事は私が毎日ちゃんと教えてあげるからね」
千隼に頬ずりしながらそんな事を言う鈴の顔を千隼は不思議そうな顔をして見つめていた。
それから千尋が戻るまでの間、鈴は出来る限り千尋と千隼と過ごした。あんなに恥ずかしかったお風呂も仲良く三人で一緒に入ってみたりしてみた。
千尋は案外子煩悩なようで、率先して千隼の面倒を見てくれる。
「ほら千隼、あなたの大好きなカボチャですよ」
「あー!」
千隼を膝に乗せて千尋は食べ物を紹介しながら千隼の口に運んでやっている。その度に千隼は千尋の髪を引っ張りながら嬉しそうに食べていた。
「ち、千尋さま、髪が……」
「構いませんよ。こら、それは食べ物ではありません」
そんな光景にオロオロする鈴とは裏腹に千尋は特に気にした様子もなく千隼の口から髪を取り出している。
「いっそ切りましょうか……」
あまりにも千尋の髪を千隼が食べようとするので、困ったように千尋が言うが、これだけ美しい髪を切ってしまうのはもったいない。
「あ! 縛りましょうか?」
鈴は自分の髪を結っていたリボンを解いて千尋の後ろに回り込むと、千尋が目を細めて頷いた。
「ありがとうございます」
「いえ! ですがいつも千尋さまがしているみたいには出来ないかもです……」
「一つに縛ってくれて構いませんよ。とりあえず千隼の手が届かないようにしましょう」
「はい! 痛かったら言ってくださいね」
そう言って鈴は手櫛で千尋の髪を梳かしながら一つにまとめて縛った。その途端、千隼が泣き出しそうに顔を歪める。
「あ、泣きそう……」
そんなに千尋の髪がお気に入りなのか、千尋の髪を取り上げた途端にグズり始めた千隼を見て千尋はさらに困惑した表情で言う。
「……切って置いていきましょうか?」
「髪をですか? それは何だか……遺品みたいになりませんか?」
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