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何の前触れもなく、おふくろは家を出た。
殴られるために帰る家でおふくろは唯一俺の生きる希望であった。
かりかりパン―――うちではそう呼ばれていたがパンの耳を揚げて砂糖をまぶした菓子だ。たしかラスクとか言った―――が帰れば待っているから。
そう言って、おふくろは俺を笑って送り出してくれた。
家に帰ると、いつもはまだ帰って来ていないはずの親父がいた。
「母さんなら出て行ったぞ。」
キッチンの自分のイスに座った親父がぼそりと言う。
親父は怒っているのか悲しんでいるのかどちらとも分からない表情でテーブルの上に置いてあったカップ焼きそばを手に取って立ち上がると、シンクへと向かう。
カップ焼きそばのお湯が流される、湯気が昇る。親父は一度も俺の顔を見ようとしなかった。シンクがぼこんと音を立てた。そのからっぽな音が胸におおきく響いた。
テーブルには一枚の紙切れとかりかりパンが載った皿があった。
息で喉が詰まる。涙がせり上がってきて視界がぶよぶよに揺らいだ。
上手く息ができなくて浅い呼吸を忙しなく繰り返す。
強く握ったランドセルのベルトが掌に食い込む。
捨てられた。
事実を受け入れることができずにただキッチンのフローリングの床に立ち尽くす。
キッチンは昨日と何も変わっていなかった。棚に並んだ鍋もフライパンも隅々まで磨かれたガスコンロも昨日と同じままだった。
邪魔。
親父の声に俺に向けられた眼差しに苛立ちが混じる。
殴られる、と思った。
無理だ無理だこの人と二人だけで暮らすなんて無理だ殺される助けて
声にならない言葉が電光掲示板を流れる文字みたいに頭の中を一気に駆け抜ける。
頭が、体が、心が、現実の全てを拒絶する。
重たい足を何とか動かして自分の部屋へ向かう。
何とかベッドに入って頭から毛布をかぶった。
この毛布が母ちゃんだったらいいのに―――。
そう思いながら、目をぎゅっとつぶる。そうすると全身を包む痛みが少し和らぐ気がした。かろうじて、親父から与えられ受け取る痛みに耐えうるだけの身体を保てそうだった。
ベッドに入ったまま、その夜は声を殺して泣いた。
母ちゃんが俺を置いて出て行ったことが悲しかった。一緒に逃げようと言わなかったことを後悔した。
大丈夫だよと言って抱きしめてくれる人はもういない、俺に希望を持たせてくれる人はもういないのだ。
親父のきもちが痛いほど分かった。
親父は明日が来ることが恐ろしかったのだ。
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