3.噛む

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 それを教えてくれた人が今どこで何をしているかは分からない。  どこかで幸せに暮らしているのならそれでいい。  俺なんかいなくたって、おふくろは幸せに生きられる。  「大丈夫、大丈夫。」  指に噛み付いて離そうとしない子猫に語りかける。  かつて、おふくろが俺にそう言ってくれたように。  「……俺はおまえを捨てないよ。」  ほんのわずかに力を入れて指を上に動かすだけで、口の中から指が抜けた。    「弱っちいなぁ、おまえ。」  噛み付くのなら、もっと、力を込めて。  絶対に離さない強さで。  サメが交尾をする時みたいに、自分の存在を相手の体に強く強く刻み込むんだ。  生きるためなら凶暴でいい。  そこに愛があれば、きっと、もっといい。    何が起きたのか分からないと言うふうに子猫はまん丸の目で俺を見つめる。  最初は一晩だけ預かってこいつのことを飼ってくれそうな店の前に置いていこうかと思ったが―――。  「自分を大事にするって何?」  子猫と会った時のシミズの言葉が胸の深いところで響く。  「……おまえが教えてくれるのか?」  答えが返ってこないことは分かっている。  過去の俺を救ってくれたこいつを捨てることができない。だから、一緒に暮らしてみようと思う。  固まる子猫に手を伸ばす。  今度は抱えてみよう。  掌で掬い上げるようにそっと―――。  瞬間、すっと、煙が一筋立ち昇るように鼻に流れ込んでくる血の臭い。  赤。  昨日、因縁を付けてきた雑魚に切られた右腕に巻いた包帯に血の赤黒い色が滲んでいるのが目に飛び込んでくる。  傷口は浅くても傷跡が塞がっていないからか、当然まだ血は止まらない。  本能に訴えかけてくる生臭い臭いと色。  ぞくぞくと背筋に震えがはしる。  おい、自分の血だぞ。  分かってる。分かってるんだ。  時々、対戦相手や因縁を付けてきた相手だけでなく自分の血を見たい衝動が抑えられなくなる。   誰彼構わず喧嘩を売っているうちにサメの本能が自力では制御できなくなって血を見て、味合わずには生きられなくなってしまった。  本能のせいじゃない。血に異常なまでに興奮してしまうのは俺がイかれているから―――違う、安易な言葉で現実を和らげるな―――俺が病気だからだ。  我慢できない。  ひとりでに腕が動く。  折り曲げた右腕で口を覆う。痛い。  傷口が目の前に迫った瞬間、一気に血の臭いが鼻の中に流れ込んでくる。  今、口を開いたら―――。  渇いた舌が急に温かく感じられる。  腹の下が熱くなって、止めていた息を深く吐き出す。  ダメだ―――こいつを育てるって決めたんだ―――自分の血でヌくような奴に生き物を育てる権利なんかない―――。  血に誘われた本能を抑えて、箱の中の猫に目をやる。  子猫は俺から目を離さないでいた。  様子を伺っているのか、動かずに俺を見ている。  その目は何も分かっていないようで―――。  「―――ごめん。」  閉じた瞼の裏で窓の向こうの青空と血の赤が混ざり合って弾けた。              
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