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最終章 地獄の子
雲の多い青空から朝日が零れ落ちて来る。
右腕には昨日よりもさらに厚く包帯を巻いたがそれでも血が滲んだ。目眩がしてその場に倒れそうになるのを踏ん張って堪える。
段ボールが揺れたのが怖かったのか、子猫が怯えているかのように鳴く。
「……大丈夫。」
言ったところで通じているとは思わないが、それでも言葉にした。
これから子猫を捨てに行く。
拾ってくれる奴がいるかは分からない。道端でカラスに襲われたり車に轢かれることだってありえるが、俺に喰い殺されるよりはマシだろう。
子猫を捨てる場所は『よどみ荘』のあるディープシーから南に向かった中心街の人気のないところにする予定だ。
俺は子猫が入った段ボールを抱えディープシーの外れを歩いていた。
ディープシーから中心街へと抜ける通りはホームレスやヤク中が隠れ住むアパートの廃墟やボロい空き家が川に沿って建ち並ぶウィングノーツのスラム街と呼ばれる場所だ。
通りには人気がないのに常に殺意が立ち込めていて、町で一番治安が悪い。当然こんなところに猫を捨てるわけには行かない。
出血しているのもあるが、疲れていた。この疲労は傷のせいだけではない、たった一晩で目まぐるしく揺れ動いた感情がもたらしたものだった。
腕の痛みを堪えて進む。
霞む頭の中にはガキだった俺を置いてアパートを出ていくおふくろの背中が浮かんでいた。見たことなんてないはずなのに、想像のおふくろは後ろめたそうに背を丸め尾びれは垂れ下がっている。
今なら俺を捨てたおふくろの気持ちが分かる気がした。
おふくろはいつまで続くのか分からない暴力にいつか自分が耐えられなくなった時にその苦痛の矛先が俺に向かうことを恐れたんだ。
おふくろが一人抱えていたはずの痛みを想って、胸が締め付けられる。
もし、今、おふくろが幸せに暮らしているのなら俺を捨ててくれてよかった。
そう誰かの幸せを願える辺り、まだ俺にも良心が残っているらしい。
そのことに気付くと、笑えてきた。視界がまたぐらりと傾いて、倒れないように両足に力を込める。
朦朧とする意識に子猫とは別の生き物の臭いが流れ込んで来る。
臭いからして、獣人、それもクジラの類の男。汗と海の臭いが混じった濃い生命力に満ちた臭いだ。
俺のような水族や獣人はヒトではない種族の生き物は臭いで個体を識別できる。
忘れもしない―――この臭いは―――。
「おい、兄ちゃん、大丈夫か?」
倒れかけた俺の元にどかどかと足音を立ててやって来たのは一人のシャチの獣人だった。
身長だけで2mを優に超す巨体にヨットの帆のような大きな背びれ。暑さに滅法弱いクジラ類の仲間の御多分に漏れず、春になったばかりだというのに半袖のTシャツを着ている。
「……こりゃ酷いな。」
男は俺の右腕を見るとアイパッチの下の小さな目をさらに小さくする。
男が包帯越しに傷を見る間、俺は男の首元から目が離せなくなった。
男の太い首の右側の付け根から鎖骨にかけて大きな傷を縫った痕が生々しく残っている。きっと、その傷は肩の辺りまで続いているはずだ。
「……おまえ、生きてたんだな。」
「えっ?」
俺の呟きにシャチは首を傾げる。
どうやら、こいつは十五年前、道端で喧嘩になった末、目の前にいるホホジロザメに思い切り首の肉を噛み千切られたことを覚えていないらしい。
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