第1話 桜・2

6/6
前へ
/190ページ
次へ
 家永の腹が微かに鳴ったのだ。  家永はさりげなく腹を押さえたが、門脇は見逃さなかった。 「……って、先生、今のは……」  門脇がニヤリと悪い笑顔を浮かべる。  朝起きてから何も食べずに研究室にやって来た。  とりあえずコーヒーを入れて一杯だけ飲んで……その後、実験結果や資料のまとめをしていて、昼近いこの時間まで何も口にしてない。  門脇が買って来たごちそうを目の前にしたら、そりゃ腹も鳴るだろう。 (俺は【パブロフの犬】か……)  条件反射ってやつだ。  こうなっては抗っても仕方ない。 「……生理現象だ。目の前でお預けされると、こうなる……誰でも起こりうる身体の自然な仕組みだ」  とはいえ、負け惜しみにしか聞こえない。  腹が鳴る音を聞かれるのは、たとえ家永だって恥ずかしい。精一杯強がって言ってみても、またもや「くぅー」と追い打ちのように体は空腹を訴え続けていた。 「ふーん、体は正直……っていうことでいいか?」  門脇が意地悪く確認すると、 「……っ」  ぐぅっと、家永が言葉に詰まった。 「もう、我慢の限界だろ? さっさと言えよ。『俺が欲しい』って」  こんな状況で、門脇に屈したくない。 (絶対に言いたくないっ!)  意地でも言わないと家永は、拳を握りしめた。 「……」 「……」  どのくらい、睨み合っただろうか。  その間も、長机の上のサンドイッチとプリンと芳醇な香りコーヒーはキラキラと光を放っている。 (空腹のあまり、俺は幻覚まで見え始めたようだ) 「……」  にやりと笑いながらトドメとばかりに門脇は、間食用にと買ったチョコレートを袋から出した。 (……あれは期間限定販売のチョコレート!)  疲れた脳と空腹の身体が、糖質と言う名のエネルギーを欲している。 (……そうだな。言ったところで死ぬわけではない。多分メンタルは削られるとは思うが、それだって気の持ちよう。意地はってレアサンドと今しか食えないチョコを食いっぱぐれる方が損じゃないか?)  家永は、合理的に考えることにした。  門脇のいいなりになるのは悔しい。  が、空腹も限界をとっくに超えている。  しかも喉も乾いている。  家永が掠れた声で 「か、門脇君が……欲し……っ……!」  と言いかけた時、 「だ、だーめぇぇぇ! それ以上は……! 踏みとどまってー!」  突如、文学部で理科学教棟には縁がないはずの御前崎美羽が、研究室のドアを大きく開けて飛び込んだ。
/190ページ

最初のコメントを投稿しよう!

83人が本棚に入れています
本棚に追加