第3話 菖蒲・1

1/5
前へ
/190ページ
次へ

第3話 菖蒲・1

 慶秀大で生物学専攻の家永晃一は、よほど実験で手が離せない日以外は、一日に15分の日光浴を欠かさないことにしていた。  山の傾斜に沿って建てられた理化学教棟を下ると、中庭に出る。そこから大学の中枢ともいえる本館、図書館、講堂、食堂などが広がる。更にその向こうには、人文学部や法学部などの各種学部の教棟が広がっていた。  理化学教棟の裏に広がるスペースには小さな池があり、そのほとりには藤棚が涼し気な木陰を作っていた。藤棚の下には木製ベンチが置いてあり、誰もが憩いの場として使えるようになっていた。ただ、この場所を知っているものは少ない。  藤棚の下のベンチに、家永は白衣着たままごろんと横たわった。  もう日差しはかなり強かったが、藤棚が適度に陽を遮ってくれる。ほのかな花の香りも心地いい。  目を閉じて2分。  うつらうつらし始めた頃に、 「あー! こんな所でまたさぼって」  と、けたたましい御前崎美羽のソプラノヴォイスが聞こえた。 「……」  寝たふりをしてやり過ごそうとしたが、御前崎美羽の方はそうはいかないらしい。 「ちょっと先生、寝たふりなんかしてないでよ」 「……おい、ちょっと待て」  美羽は、寝ている家永の脇に強引に座ろうとする。家永は慌てて起きあがると、都合よく空いたスペースに美羽は腰を納めた。 「……一体、何の用だ?」  藤棚の下、お互い両端に座り、なんとも気まずい空気が流れる。 「門脇君にばっか実験させて、自分はこんな所でお昼寝? 指導教官っていいご身分だわ」  家永と目を合わさずに、ふくれっ面の美羽は言った。  視線の先には、藤の花が爽やかに揺れた。 「昼寝ではない。15分の日光浴だ」 「日光浴? 藤棚の下なのに?」 「この程度の日差しがちょうどいい」 「ふーん。外なんかキライな研究大好きのインドア教官かと思ってた。顔色もあんまりよくないし」  インドアと書いて「もやし」と読む。  美羽なりの嫌味を敏感に感じ取った家永は 「……ほっといてくれ」  ぷいとそっぽを向いた。
/190ページ

最初のコメントを投稿しよう!

83人が本棚に入れています
本棚に追加