ボルチモア

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 今朝、月子と食事をしていたら、月子が突然泣き出した。昨日の仕事での出来事なのだろう「私、今まで物とか売ったことがないから、どうやって売ればいいのかわからない」そう言って手で顔を塞いでは泣いて、出かける時刻になると、泣きながら家を出て行った。まるで学校に行きたくない子どもが、泣きながら学校へ行く、そんな光景だった。 「ただいま」 月子が帰って来た。 「おかえり、ご飯は」 「食べて来た。もう仕事辞める。やってられない。今日も机蹴飛ばしてふざけるなって言って、どんだけ帰りたかったことか。余りにも理不尽すぎるわ、この異動」  月子は最近、秘書から営業へ異動になったらしい。そう言われても、私は微笑んで頷くだけである。でも、理不尽な異動になった原因はあなたにあるのではとも思うが、そんなことをここで言ったら大変なことになる。 「ごめんね、ただ言ってるだけ。本当は仕事辞める勇気なんてないの。私はこの生活の中でしか生きられないのよ。この生活の中で自分らしさを見つけていかなきゃならない」 「あー鎌倉のカフェでキラキラした海に浮かぶヨットをぼーっと眺めたい」 「人間の一番美しい部分だけをずっと見ていたい」 月子はたまに私をどきっとさせる一言を言う。 「人間の一番美しい部分ってどこ」 「陽ちゃんの笑顔かな」 そして思ってもないことを、さらっと口にする。何て顔をすればいいのかわからなくなるではないか。 「陽ちゃん」 「何」 「愛してる」 ほらまた思ってもないことを。近づくと離れるくせに。月子はまるで薄いきれいなガラスのようだから、触れるとパリンと割れてしまいそうで怖い。 「いつ帰るんだっけ」 「20日、夕方の便でね」 「そうだった、後10日だね」 「今日もこれから作業でしょう」 「そうだよ。打ち合わせもあるし、まだ寝れないよ」 「こっちにいると昼夜逆だもんね。がんばってね、おやすみなさい」  いつか月子を抱き締めながら眠ることができたらなあ、なんて思いながら私は仕事に戻る。 「月子、今週末鎌倉に紫陽花見に行こう」    私の生活の拠点はボルチモアである。父親の仕事の都合で4歳からアメリカで生活をしている。私は個人でウェブデザインの仕事をしているので、パソコン一つあれば何処を拠点にしても問題ないのだが、今はアメリカで活動したほうが仕事が進むのは確かなのである。通っていた大学がボルチモアにあったため、慣れ親しんだその場所で現在も生活をしている。  月子とは、2歳離れた幼馴染である。というのは、私が幼い頃、私の母が私に日本語を忘れないようにと、夏休みに父方の祖母の家に毎年1ヶ月程帰省させて日本の学校に通わせてくれたのである。祖母の家の裏に月子の家があったため、幼い二人は毎日の登下校やお互いの家を行き来するなどして自然と親しくなった。  月子と今の関係になったのは、祖母の葬儀で私が10年ぶりに日本へ帰国し、月子と再会したことがきっかけである。月子を一目見て目が離せなかった。自分の中に月子の幼い頃の記憶や面影があったわけではないのだが、私がずっと探していた人だと思った。  ボルチモアへ戻りパソコンを立ち上げると、早速、月子からメッセージが届いていた。月子とはチャットと電話で連絡を取り合っている。 「陽ちゃん、バラの花届いたよ。25本。ありがとう。あとカニの人形、これかわいいね。あと栞」 私もメッセージを送り返す。 「誕生日おめでとう。こんな事くらいしかできなくてごめんな。最近知ったんだけどボルチモアってカニが有名みたいでさ。長く住んでいても知らない事って沢山あるよな、少しでも月子に自分のいる場所がどんな所なのか知ってもらいたくてね。紐引っ張るとカタカタ動くよ、その人形。後、その栞にはエマーソンの言葉が書いてあって」 おっ、オンラインになった。 「次会えるのは何時になるんだろう」 「12月には日本へ行くよ」 と言いつつも実際の所、行けるかどうかよくわからない。月子もおそらくそう思っているのだろうな、申し訳ない。 「陽ちゃん、今度日本に来たら一緒に眠りたい」 「そうだな」 「楽しそう。おやすみなさい」   私は日本人であるし、日本の食や文化を好むので、いずれは日本に住まいを構え生活したいと考えている。庭では子どもが遊び私の隣には月子がいる。そんな光景を思い浮かべては、私の仕事を軌道に乗せ安定させなければと考えるが、それにはもう少し時間がかかりそうだ。  12月に日本へ行くのは難しいと思っていたが、年内の仕事の調整がついた。クリスマスは月子とバレエでも見に行こう。  日本に着いてから「成田に着いたから、一時間くらいでそっちに着くよ」と月子にメールをしたら「駅まで迎えに行くよ。歩いてだけど」と返ってきたので、「じゃあ、そうしてもらおうかな。荷物持つの手伝ってくれる?」と再び返した。  駅で待っていると、近づいてくる歩き方で月子だとすぐにわかった。  半年ぶりに訪れた月子の部屋は依然変わらず、私の心を落ち着かせる。  ソファに座り月子が淹れた熱い紅茶を飲んで、二人一息つく。 「仕事は、最近どうなの」 「向いてないのかも。何で私は、みんなができることが、できないんだろう」 「辞めちゃえば。月子なら優しさ売りますでもいいんじゃない」 「優しさって、何売るの」 「なんだっていいんだよ。売ってよ俺に、生涯買い続けるよ」 そして、おいでと両手を広げて見せたが、月子は来ない。 「陽ちゃんは日本じゃ暮らせない」 そう思われても仕方ない。 「いつかは日本で生活しようとちゃんと考えてるよ」 「私は一人で生きていきたい。私は一人でいないと私でいられなくなってしまうのよ。陽ちゃん、静かに私から離れてほしい。って言っても、もう既に私達離れているよね。これ以上にないってくらい」 笑えない。 「何が悪いわけでもないから。私は今のこの生活の中で自分らしさを見つけていきたい」 「ごめんな」 こんな言葉しか出ない。    二人はもっと単純に、私も月子が好きで、月子も私を好きという、簡単なもので良いと思うのだが、月子の歴史の何がそうさせたのかわからないが、一人が良いと言う今の彼女に私との関係を維持することは難しい事なのだろう。出来ないものは出来ないと言うのは私にもわからない事ではない。  ただ私は月子がこの先見つけるであろう自分らしさというものに花を添えてあげたいだけなのだが、今はそれさえも彼女は「いらない」と言うだろう。 「陽ちゃん1ドル頂戴」 「えっ、何で?あったかな」 「月子は優しさ売りますでも良いんでしょ」 「月子の優しさは1ドルか」 「違うわよ、お守りにするの」 こんな時、私も月子を抱き寄せて壊れる程抱きしめてみたいと思うのだが、出来ないものは出来ないのである。
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