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第2話『旅立ち』
“まただ……”
そう気づいた時には、いつも燃え盛る炎の中にいる。
炎の中にはもう一人。こちらに背を向けて立つ女性がいた。
流れるような黒髪。艶やかな着物。
『鬼姫様』
心の中で声にする。何度も何度も、繰り返し飽きずに読んだ昔話『鬼里姫』。まるでその終盤と同じだ。
女性は振り返らないし、何も言わない。こちらに背を向けて立っている。
その背中を見つめることしかできない。動きたくても動けない。夢の中ってそんなものだ。
頭上で大きな音……何かが爆ぜるような……が聞こえたすぐ後で、周りが暗闇になる。
そして、目が覚める。あの夢の後は、いつも悲しい気持ちになる。
振り返らない鬼姫様。
焼け落ちていく神殿。
動けない自分。
何もできない……どうしたらいいのか分からない。
何度も何度も同じ夢を見ているのに、一歩も先へ進めないもどかしさ。
鬼姫と同じような長くて黒い髪に、色白な肌。くっきり二重の黒い瞳。起きたばかりでも血色の良い紅い唇。
彼女の名前は鬼守 紅姫。先日の6月11日に28歳になったばかり。
あの夢は、高校生の頃から頻繁に見るようになった。数年経った今でも、場面も立ち位置も変わらない、不思議な夢。
「鬼姫様、何か伝えたいことでもあるのかな」
そう呟きながら、枕元に置いている擦り切れた本『鬼里姫』を手に取る。
幼い頃に母が何度も読み聞かせてくれた昔話。大好きな昔話。ボロボロになってもまだ、読み続けている本。けれど不思議なことに、その昔話を知っている人は紅姫とその家族だけだった。学校の友人たち、国語や社会の先生、図書館司書の人も、口を揃えて
「そんな昔話は知らない」
「聞いたことがない」
と言う。
これは母が、娘である自分のために創作した昔話なんだろうか?それはなんのために?
本の作りを見ても、素人が作った物ではないのはすぐに分かる。美しい装丁が施された、和綴の本。色鮮やかに描かれる神殿や鬼姫の姿。
紅姫が高校生になった時、この物語には何か意味があるのではないか……と、本格的に調べようとしたが、世間的には存在しない物語な訳だから調べ方が分からない。
困った末に紅姫が相談したのは当時交際していた彼、奥本 司だった。
「え?存在しない昔話のことを調べたい??紅姫ちゃんって、時々よく分かんない面白いこと言うよね」
そう言ってにこやかに微笑む奥本は、紅姫より2歳年上。
奥本の大学受験に向けての補講が終わった秋の日の放課後、2人で並んで歩きながら、紅姫は奥本に鬼姫の物語を語った。
「こういう昔話なんだけど、奥ちゃんも聞いたことないよね?」
“奥ちゃん”“紅姫ちゃん”が2人の呼び名だ。
「うーん……」
そう言って奥本は天を仰ぐ。
小柄で華奢に見える体躯。色白な肌。とろんと垂れた優しそうな瞳に、黒縁の眼鏡。女子も羨む長くて濃い睫毛。口角が上がった薄く小さな唇。短く整えられた柔らかな黒髪が、秋風にふわふわ揺れている。
「僕……その話、どっかで聞いたことある。どこだったかなぁ〜?」
うーん……と、奥本はまた天を仰ぐ。
「奥ちゃん、聞いたことあるの!?どこで?いつ?誰に??」
「えっとね〜……あ、とりあえずあそこで座って話そうよ」
食らいつくように質問する紅姫とは対照的に、奥本はのんびりと、近くの公園のベンチへと紅姫を誘った。
「あったかい飲み物買ってこようか?」
「それは後でいいから先に思い出して!!」
紅姫の必死の剣幕に押されて、奥本もようやく真剣な顔になる。
「そんなに昔じゃないと思うんだ。多分、小学校高学年か、中学生になったばかりの頃かな。場所は……そうだ、神社だ。神社で聞いたんだよ、その昔話」
奥本の記憶によると、こうである。
学校行事で地方の大きな神社を訪れた。当時から、のほほんとのんびりしていた奥本は、気付くと同じ班のクラスメイトとはぐれてしまっていた。帰りはバスだし、神社の中にしかいないんだから、そのうち合流できるだろう。そう思い、特に慌てるでもなく引き続き1人で散策をすることにした。
「あぁ……すごく奥ちゃんっぽい」
途中で紅姫が笑う。
「それでね……」
様子がおかしいと気づいたのは、境内の最奥まで来てしまい、入り口へ戻ろうと振り返った時だった。
来た道とは全く違う景色が広がっていた。夜明けなのか夕暮れなのか、どちらか分からない色の世界。地面を這うように流れる霧。見上げた空は群青色で、流れる雲は黒い。そして……
「黒い鳥居があったんだ」
焦げているわけでも、朽ちているわけでもない。黒く塗られた大きな鳥居。その奥にはそれこそ朽ちたような寂れた神社があった。黒い煙が上がっている。それに気づいた瞬間に、焦げ臭い匂いが鼻をつく。
…あぁ、やっと来たのね…
不意に女の人の声が聞こえた。不思議と恐怖は感じなかった。黒い鳥居の向こう。神社の前の、砕けて元の姿が分からなくなった石像の傍。真っ白な着物を着た髪の長い女性が立っていた。さっきはいなかったのに。
「その人が聞かせてくれたんだ。鬼姫の物語を。どうして今まで忘れてたんだろう」
「それで、その後どうなったの?」
同じ班のメンバーから聞いた話によると、ある地点を過ぎたところで奥本がいないことに気づき、探しに行ったが境内のどこにも姿が見えない。トイレにでも行ったんだろうかと社務所の人に聞いてみたが誰も来ていないと言う。神社の奥は森へと繋がっている。もしや森に迷い込んでしまったのではと慌てて担任教師へと報告。学年全員での大捜索になったという。
「見つかった場所が、僕がいないって気づいた所だったんだって。倒れてたみたい。神主さんに聞いたらそこは鬼門にあたる場所で、一瞬だけ鬼に神隠しされたんじゃないか?って。そんなわけないのにね」
たぶん貧血とかそんなんだろうね。そう言って奥本は笑った。
「鬼門と鬼による神隠しかぁ。……ねぇ奥ちゃん、嘘ついてない?わざと知ってるフリして話し作ってないよね??」
「そんなことしないよ!疑うんなら僕の同級生たちに聞いてみてよ。奥本神隠し事件について聞かせて、って」
「奥本神隠し事件……か」
当時のことを思い出して、紅姫はくすりと笑う。
その後、奥本からは特に新しい情報は引き出せなかった。そして、紅姫が高校3年生になった年、なんの前触れもなく奥本から別れを切り出された。今になってもその理由は分からない。喧嘩もしていない。他に好きな人ができたということもない。たった一言
「さよなら」
それだけ。
その日から奥本には会えていない。もう何年も経った。不思議と連絡だけは続いていて、数ヶ月の間隔でLINEのやり取りをしている。会いたいとは思うけれど、奥本からそういう話題が出たことはない。
元気にしてる?
誕生日おめでとう!
風邪ひかないでね。
そんな当たり障りのない内容ばかり。
「もう終わったんだよね……私と奥ちゃん」
しんみりした気分でカーテンを開けようと、窓に手を伸ばす。しかしその手はカーテンを掴むことなく、コツンと壁に触れる。そこに窓がないことに困惑したが、すぐにその謎に気づく。
「そっか。あの部屋じゃないんだ」
ぐるりと部屋の中を見回す。殺風景で生活感のない、整い過ぎな部屋。
駅近のビジネスホテルに紅姫はいた。遡ること1日前。高校卒業後に就職した社員寮付きの職場退職した。当然、その寮にはもう住めない。大きめの家具や家電は実家に送り、自分は旅行用のキャリーバッグとショルダーバッグに入るだけの荷物しか持たず、このホテルへ泊まった。これから実家へ帰る訳ではない。
仕事を辞めると決めた日に、母へ電話をした。
「ずっと決めてたの。お金と時間に余裕ができたら、出発するって。そのために働いてた。やっと目標にしてた額まで貯まったの。だから、私…行ってみたいの。うーん…違うな…行かなきゃいけない。そんな感じがするの」
簡単に理解し、承諾してくれるとは思っていなかった。それでも紅姫は決めていた。奥本が鬼姫の物語を聞いたという神社へ行くことを。奥本神隠し事件の現場へ行くことを。
どうしても、この物語が生まれた理由を知りたい。
なぜ限られた人しか知らないのか。
なぜ自分はこんなにも鬼姫に惹かれるのか。
確かめたいこと、調べたいことは山ほどある。
紅姫の予想を反して、両親も弟もその決意を受け止め、快く了承してくれた。
「いつかはそう言う日が来ると思っていたわ」
電話越しの母は、いつも通りの優しい声でそう言った。
身支度を整え、チェックアウトをし、エントランスを出る。
6月の半ば。梅雨時期なのに、綺麗に晴れ上がった青空が広がっている。気持ちの良い風が髪を揺らす。旅立ちにはぴったりだ。
早い時間の電車で出発することは決めていた。駅のホームで時間と目的地の最寄駅を再確認した後で、届いていたLINEを確認する。
「あ、奥ちゃんだ」
奥本には、仕事を辞めて鬼姫の神社を探しに行くことは伝えていない。それなのに、旅立つ日の朝にこうして連絡が来るだなんて……もしかしてまだ縁が続いているのでは?と紅姫の心がときめく。
『紅姫ちゃん、久しぶり。ねぇ、忘れてる?僕の誕生日、今日なんだけどなぁ…』
誕生日……慌ててカレンダー機能で日付を確認する。6月20日。奥本の誕生日だ。
拗ねたような顔の絵文字がついていて、思わず笑みがこぼれる。迷わずに返信を打ち込む。
『奥ちゃん、お久しぶりです。忘れてないよ。お誕生日おめでとう!!』
そう返信したところで、電車がホームに入ってくる。シートにおさまりホッとため息をついたところで、ゆっくりと電車が動き出す。流れていく景色を見ながら、不安が期待へと変わっていくのを感じていた。
新しい生活、物語が始まる。
スマホに目をやると、もう奥本から返信がきていた。開くと写真が1枚。スーツ姿でケーキを持って微笑む写真だった。あの頃と変わらない、優しく可愛い笑顔がそこにあった。
『職場で祝ってもらったよ。紅姫ちゃんからも祝ってもらえて嬉しい。ありがとう!』
別れてからの奥本の顔を見るのは初めてだ。無意識に、左手薬指のあたりを目で探る。キラリと光るものは見えない。
『全然変わってないね 笑』
それだけを打ち返す。“会いたい”という言葉は、まだ打てない。
笑顔の奥本の写真は保存した。奥本の方から“会おう”というようなメッセージが届くのではと期待していたが、それっきり返事はこない。よくよく考えたら平日だ。仕事の時間にそうスマホをいじってばかりはいられないのを、紅姫も十分に分かっている。
スマホをしまい、『鬼里姫』の本を取り出す。
“むかしむかし……”
何度目か分からない『鬼里姫』の物語。この本が、鬼姫様の所へ連れて行ってくれる。
「もしかしたら……」
奥本にも会えるかもしれない。そんな風にも思ったが、奥本が今どこに住みどこで働いているのか、紅姫は知らない。それでも、奇跡のような出会いに期待しながら、紅姫は電車の揺れに身を任せた。
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