第3話『邂逅』

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第3話『邂逅』

 電車に揺られること約一時間半。目的の駅で下車をする。降りる人は少なく、紅姫を含めて数人だった。改札を抜け、印刷してきた地図を広げる。目的地は“奥本神隠し事件”が起こった神社。20年近く昔の事。覚えている人がいてくれることを祈るしかない。  駅からバスに揺られること10分ほどで目的の神社に到着した。大きな赤い鳥居。この辺りでは有名な神社らしく、たくさんの参拝客の姿があった。落ち着いているというよりも、華やかな雰囲気の神社だと、紅姫は感じた。  ゆっくりと参道を進む。拝殿の傍に社務所を見つけ、お守りの整理をしていた巫女に声をかけた。 「あの、すみません。ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど……」  おそらく紅姫とそう年齢は変わらないであろう巫女は、紅姫の話を聞いて首を捻った。 「そうねぇ、私はここにきてまだ1年だし、その頃は私も学生だったからなぁ。でも……もしかしたら、神主さんなら覚えてるかも。ちょっと待ってて」  そう言うと、巫女は社務所の奥へ誰かを呼びに行った。戻ってきた巫女の隣には、70代くらいの白髪の老人。神主であることの説明を受け、紅姫は先ほど巫女に語ったのと同じ話を神主に伝えた。 「あぁ、はいはい覚えておりますよ。無事に見つかった時はホッとしました。鬼の神隠しというのは……あぁ、鬼門というのもそうなんですけどね。実はその鬼門の方角に小さな神社があるんですわ。怖い所ですよ。祀っているのは鬼なんですから。ありがたい神社ではない。近寄ってはならない。鬼に祟られる。鬼に喰われる。私が小さな頃からそう言われている神社です。えぇ、私の家は代々この神社の神職でしてね。そんな恐ろしい神社とは何の関係もないです。だけどね、こういう職業柄、鬼門の方にそんな神社があると……ねぇ。そこで男の子が急に消えて、その後同じところに倒れていたとなると、鬼に連れてかれたって思うでしょう。はぁ、その神社の名前ですか?鬼里神社ですよ。まさか行くんですか?おやめなさい。好奇心だけで行くところではない。本当に恐ろしい神社です」  鬼里神社……鬼姫の物語に出てくる里の名前だ。そして祀っているものが鬼だなんて。紅姫の身体にざわりと鳥肌が立つ。  行かないほうがいいと止める神主に無理を言い、紅姫は鬼里神社までの道を聞いた。  鬼門、北東の方角へ真っ直ぐ進むこと。すると大きな川に行き当たる。川にかかる橋“桜橋”を超えた先の一つ目の十字路を右へ。曲がった先は緩い坂道になっており、その坂道の途中に鬼里神社の入り口がある。 「ありがとうございました」  巫女と神主に向かい深々と頭を下げてから、紅姫は歩き出す。  この神社でお守りを買って行ったほうがいい、という神主の忠告は辞退した。自分にとっては、そこは恐ろしい場所ではない。帰るべき故郷である。紅姫はそう思っていた。 【紅姫】  神主さんから教えられた通りに歩き続けて約30分。街並みは商店街から閑静な住宅地へと変わった。その住宅の数もだんだんと疎らになり、公園や小さな川、林など自然の風景が増えてきた。  大きな川に行き着き、かけられた橋の名前を確認する。 「桜橋……この橋だ!」  片側一車線の道路が通る橋。欄干を超えてくる、川面を渡る風が心地良い。橋を渡った先には再び閑静な住宅街。その奥には林があるのだろうか。立ち並ぶ木立が見える。遠くから聞こえる音は車か海鳴りか。林の向こうからゴウゴウと音が聞こえた。そんな住宅街の手前に、これまた話の通りに十字路があった。そしてそこを右に曲がると、その先は緩い坂道になっていた。 「神主さんの言ってたとおりだ……」  この坂の先に目指す場所がある。高鳴る胸を押さえ、一歩一歩踏みしめて坂道を上る。  坂道を上りきる手前の左手に大きな黒鳥居があった。その先は10段程の石段になっており、石段の先には連なる黒鳥居が見える。門扉に付けられた表札には『鬼里神社』の文字。間違いない。ここで合っている。 「やっと着いたんだ……」  荷物を持ち直し、ゆっくりと石段を上る。鳥居の先には青々とした木々が生え、石段から続く石畳の脇には可憐な花々が彩りを添えていた。どこまでも美しく、静かな空間だった。  神主さんの話は嘘ではなかった。けれど、ここはそんなにも怖い所だとは思えない。ただ静かに在るだけ。流れる空気も先ほどの神社より清らかに感じた。石畳の先は境内に繋がっていた。しかし、そこには全くと言っていい程に人の気配が無かった。  右手側に手水社を見つけた。手水社の脇には紫陽花が咲き誇り、綺麗に清められていた。参拝客が居ないとは思えない。どこもかしこも綺麗に整えられている。管理や掃除をしている人はいるはずだ。  ひとまず手水で清め、境内をぐるりと見渡した。手水社を背に右側には社務所があり、左側には背の低い生垣。その向こうに建つのは黒い屋根で二階建のおそらく神職とその家族の住居であろう建物。さっき通ってきた石畳はこの住居の脇にあった。南を背にして黒を基調とした社殿。  先ほど通った門から南西方向にほぼ一直線の先にも黒鳥居があり、もう一つの出入り口になっているようだ。  社務所の前まで行ってみたが、そこはもう長い間時が止まっているように見えた。日に焼けた、元は白かったと思われるボロボロのカーテン。腐りかけた建材。カーテンの隙間から見える社務所の内部は埃っぽく感じた。ここには人の気配は無い。  住居側を向いた私の視線が一点で止まる。人が居た。建物の壁に寄りかかり、ぼんやりと空を見上げている、一人の男性。肩につきそうなふわふわとした黒髪が、初夏のそよ風に揺れている。  さっきまではいなかった。少なくとも、私がこの境内に入ってきた時はいなかった。一体いつの間に現れたんだろうか。  私の視線に気付いたかのように、その人がゆっくりとこちらに顔を向ける。  切れ長の目。黒い瞳が私を見つめている。そして、ゆっくりと細められる。数秒間、無言で向き合う形になった。何か言わなくては…そう思ったその時、男性の肩の辺りで何かが動いた。いや、動いたような気がした。黒い塊に金色の目のような……いや、きっとあの人の髪が動いただけ。 「あの…」  まずは挨拶をと思った、その時……今度こそ、見間違いではなかった。男性の、向かいに立つ彼の髪の向こうから、黒い塊に金色の目の何かがこちらを見ていた。キラキラと輝く二つの瞳。彼の髪をかき分けるようにして前に出てきたその黒い塊。額には二本の角。鬼だ……。小さな黒鬼が、彼の肩の上にいた。私を見つめ、嬉しそうに彼の肩の上で飛び跳ねている。  これは、幻なんだろうか。私は夢を見ているんだろうか。それとも……本物? 「君は、こいつが見えるんだね」  鬼を見つめる私の視線に気付いて、彼がそう言う。少し高めの、掠れたような声だった。私は返事をする事もうなずく事も出来ず、ただ黒鬼を見つめる。 「よかった。やっと会えたね……鬼姫様」  そう聞こえた瞬間、強い風が吹き抜けて境内の木々が揺れた。突風の勢いで、私は目を閉じる。その風の向こうから、彼の声がした。 「黒耀」 コクヨウ……。どこかで聞いた事がある名前のような気がする。とても懐かしい名前。  風がやんだ。ゆっくりと目を開いた私の前には、にこやかに微笑む彼。そして、 「お久しぶりでございます。鬼姫様」  彼の横に立っていたのは、人並みの……いや、人よりも大きな黒鬼だった。  状況を理解するより先に、思考が停止し意識が遠のいていくのを感じた。地面に倒れる痛みを受け止める前に、私は気を失った。 【夕都】  境内脇に建つ住居の居間に布団を敷き、彼女を運んだ。居間の入り口から、黒耀が心配そうにこちらを見つめている。 「しばらく向こうに行ってろ。また気絶されたら困るから。大丈夫だって。ちゃんと呼ぶから。ほら」  手で“あっちへ行け”と黒耀を居間から遠ざける。一番怖いであろう姿をしてるくせに、黒耀は気が小さくて心優しい鬼だった。  まだ目覚めそうもない彼女を横に見ながら、俺はテーブル上のスマホを手にとった。  景都(けいと)。  そう名前が表示されたディスプレイの発信をタップする。仕事中だから出ないかもしれないなと思ったが、たったのワンコールで“もしもぉーし”と間延びした声が聞こえた。  どんだけ暇なんだよ!そう言いたいのを我慢して、用件だけを口にする。 「あ、景都?今日は早く帰ってこいよ。え?残業??」 【景都】 「そう。ざ・ん・ぎょ・う。まだお昼前だけどね〜。ちょっとトラブルが発生しちゃってさぁ。今も先輩が対応中。あー、ごめん。呼ばれたから切るね。とにかく遅くなりそう。じゃーねー」  夕都(ゆうと)兄さん。  ディスプレイにそう表示が出ていた電話を切り、スーツの内ポケットにスマホをしまう。呼ばれた方を見ると、小難しそうな顔をしてパソコンの画面を睨みつけている先輩がいた。 「奥本せんぱーい。呼びましたぁ?」  女子のように小首を傾げ、上目遣いで奥本先輩の顔を覗き込む。そんなボクの仕草に、明らかにムッとしたような顔をして先輩はパソコンから目を離す。 「宮鬼(みやき)くんさぁ、私用の電話なら後にしてよ。今忙しいの分かってるよね?」 ボールペンでパソコンの画面を軽く叩きながら、奥本先輩が言う。珍しくイライラしているようだ。  高い声。でも、兄さんとは違う。掠れていない、綺麗な声。確か“今日で30歳になった”と話していて、朝ミーティングの後にケーキでお祝いしてもらってたっけ。年齢よりは確実に若く……いや、幼く見える容姿に声。小さな白い手は、手首の少し先までスーツのジャケットに隠れていた。いわゆる萌え袖ってやつだ。この容姿や声が一部の女子社員には人気のようで、他の部署からもわざわざ見にくる人がいるほどだった。 『絶対にボクの方が可愛いのに』  サラサラの髪。ごく僅かな人にしか似合わないであろうマッシュルームヘア。すべすべな肌。先輩より高い身長。すらりと長く綺麗な指。そして、可愛い声。年齢だって、ボクの方が4つも年下だ。 「宮鬼くん?ねぇ聞いてる??」  今度は奥本先輩がボクの顔を覗き込む。悔しいけれど、確かに可愛い。 「聞いてますよぉ〜。でもぉ、奥本先輩だって朝ミーティング後にお祝いされて、その後で嬉しそうに誰かに連絡してたじゃないですか。あれ、どう見ても私用ですよね?」  手を後ろに組んで、ちょっと拗ねたような顔で先輩を見る。 「あ、あれはいいの!とにかく、この書類直すの手伝って!!」  書類の束をボクに突き出して、先輩はまたパソコンに向き直る。ふーん……この感じだと連絡相手は彼女か……もしくは今狙っている人か。突っ込んでみたら面白いかも。 「先輩?連絡してた相手って、もしかしてぇ……」  彼女??と耳元で囁く。 「そ、そんなんじゃな……くもないけど。っていいから早く仕事してっ!!」  あ、絶対に女の人だ。しかも先輩の片思いっぽい。顔を赤くして怒鳴る先輩の様子に確信を持つ。けれど今これ以上の追求をするのは危険だ。仕方なく、ボクも自分の席……先輩の隣……に戻った。デスクトップ型パソコンの脇に立つ、小さな青鬼がボクを見上げる。 「ごめん青凪(あおなぎ)。ちょっと手伝って」  隣の先輩に聞こえないように青鬼……青凪に声をかける。チラリと横目で見た先輩は、ボクに渡したのとは別な書類の束とパソコンの画面とを交互に見ながら、必要箇所の訂正に取り掛かっていた。小さな白い手がキーボードの上を忙しなく移動する。 「お前のミスか?」  手元からそんな声が聞こえて、ボクは先輩から目を離した。青凪がキーボードの前に移動し、ボクを睨むように見上げている。当然だけど、この鬼はボクにしか見えていない……はず。  違うよ。  そう伝えるために、首をふる。それから小さな声で 「連帯責任」  書類の雛形を作ったのも、データ集計をしたのも奥本先輩だった。ボクはその雛形に足りないデータを追加し、表を整えただけ。取引先に書類が渡ったのが先週。担当者が不在とのことで、週明けの今朝その書類を見たところ、大きなミスが発覚した。部内上覧をすり抜けてしまったミス。その責任を感じて部長も先輩のサポートに回っていた。元はと言えば先輩のデータ集計間違いなのに。 「兄さんが早く帰ってこいって言ってるからさぁ。早めに終わらせたいんだよね」  小声でそう青凪に話しかける。そして、青凪にも見やすいように書類を並べた。 「夕都殿が?ならば仕方ないな。手を貸そう」  キーボードが打ちやすい位置に青凪は移動する。そして、訂正箇所を素早く修正していく。ボクはそんな青凪の動きに合わせるようにして手を動かし、青凪から指示があれば書類の位置を直していく。  青凪はボクと一緒に会社に来るようになってから、あっという間にパソコンの操作方法を覚えた。今ではどんなシステムもソフトもボクより使いこなしている。 『これなら残業しないで帰れそう』  青凪の動きに合わせて自分の手を動かしながら、ボクはそう思った。 【奥本】  書類を見るふりをして、僕は隣の席の宮鬼くんを見る。いや、宮鬼くんの手元を見る。やっぱり……いる。小さな青鬼。周りの人達の様子を見ていて気付いたけれど、どうやらアレは僕にしか見えていない。そして、僕に見えていることに宮鬼くんは気付いていない。今も小声で青鬼に話しかけながら、仕事をしているふりをしている。  僕には霊感とか不思議なものが見えるとかいう能力はない。それなのに、何故かこの青鬼だけは見える。もしかして……過去の鬼による神隠しのせいだろうか? 『そんな馬鹿な……』  馬鹿げた空想に頭を振る。一体何年前の出来事だと思ってるんだ。それに、その事と宮鬼くんとは何の繋がりもない。宮鬼くんと出会ったのはほんの数年前。この会社に宮鬼くんが入社してきてからの付き合いだ。 『そういえば……』  神隠し事件で思い出した。紅姫ちゃんは、鬼のお姫様が出てくる物語のことを調べていなかっただろうか。紅姫ちゃんの家族と、何故か僕しか知らない不思議な物語。神隠しにあった時に聞いた物語。 『紅姫ちゃんに聞いたら、何か分かるかなぁ?』  仕事が終わったら、また紅姫ちゃんに連絡しよう!そう心に決めて、僕は書類に目を戻した。 【雅都】 「ありがとうございました!」  今日何度目か分からないその言葉を口にして、僕は軽く頭を下げる。兄貴に似たゆるい天然パーマ。顔は景兄ちゃんに似てると思う。景兄ちゃんほどイケメンではないけど。  お昼前のコンビニ。この時間帯のシフトに入るのは久しぶりだった。昼食を買いに来た人達で、店内は多少混み合っていた。お昼を過ぎた頃にはもう少し混むんだろうなぁ。やっぱり深夜から早朝の勤務の方が自分には向いているのかもしれない。そんなことを考えていた時、服の裾を引っ張られ、僕は慌ててしゃがみ込んだ。 「黄雷(こうらい)!ごめん、まだ仕事中だから。もう少し向こうで待っててよ」  靴紐を結び直すふりをしながら、僕は小声でそう言う。 「夕都兄ちゃんから電話あったよ」  カラカラと楽しそうに黄雷は話す。  大きな目をクリクリと輝かせて僕を見つめる小さな黄鬼。背丈は僕の腰くらいまでしかない。おかっぱ風な髪の中から、小さな角が二本のぞいている。そして当然だけど、黄雷は僕にしか…僕たち兄弟にしか見えない。 「兄貴から?」 「うん。早く帰ってこい。って雅都(まさと)に伝えてくれだって」  仕事中に兄貴が電話をしてくるのも珍しいし、早く帰ってこいという連絡も珍しい。神社で何かあったんだろうか。景兄ちゃんにも連絡が入ったんだろうか。だとしたら…もしかして。 『鬼姫が……?』  消えるようにバックヤードに戻っていく黄雷を見つめながら、今すぐにでも帰りたい気持ちを押さえつけた。 「こちらのレジどうぞ!」  笑顔を作り、会計を待っていた人の列に声をかける。まずは目の前の仕事に集中しなきゃ。景兄ちゃんは青凪さんを使って上手く手を抜いているようだけれど、僕はそこまで器用じゃないし、そんな度胸もなかった。 【紅姫】  目を開けると、見知らぬ部屋の天井が見えた。自分がどこで何をしてここにいて、どうして布団に横になっているのか。思い出そうとした時に 「あ、起きた?大丈夫?」  そう声をかけられた。特徴のある、掠れ声。声のした方を向くと、神社の境内で出会った男性が座っていた。一瞬で記憶が蘇ってくる。 「あのっ、お、鬼が……!」  布団から飛び起きそれだけを声に出す。そうだ、鬼だ。黒い鬼。部屋の中を見回してみたが、この部屋には居ないようだ。 「やっぱり見えてるんだね。よかった。ずっと……ずっと、ずっとずっと、君のことを待っていたんだよ。鬼姫様」  ニヤリと笑いながら彼が言う。鬼姫?私が? 「ま、待ってください!冗談ですよね?だって、あれは創作の昔話ですよね。この神社だって、そのお話が伝わっているだけで……その……」  その先は言葉が見つからなかった。鬼姫の昔話を全て否定することに気づいたから。今まで私が夢みて憧れ、追いかけ続けた大好きな世界を。そして、私以外に鬼姫の物語を知っている人の存在をも。 「冗談でも嘘でもない。君は鬼姫様だ。そして、俺は鬼姫様に仕えていた三兄弟の長兄」  真っ直ぐに私を見つめて話す彼を、私も見つめ返す。目と目が合った瞬間、心の中に大きな波が押し寄せてきた。どうしてだろう。今日初めて会ったのに……私はこの人を知っている。 「……夕都さん?」  まだ聞いていないはずの名前が声になる。それを聞いて、ニッコリと彼が笑う。 「はい、正解。君が鬼姫様で間違いない。やっと会えた」  私の手を握り、夕都さんは嬉しそうに言う。 「会いたかった……鬼姫」  優しく頭を撫でられて、その温もりの懐かしさに胸がいっぱいになる。やっぱり、ここに来るという選択は正しかったんだ。ここに来なきゃいけなかったんだ。あの日の、最期の時の願いと約束を叶えるために。 「私……しばらくここに居てもいいですか?」  零れそうになる涙を見られないように、俯いてそう言う。 「もちろん。そうだ……おい!黒耀!!」  廊下に向かって夕都さんが呼びかける。すぐにドタドタと廊下を走る足音が聞こえ、勢いよく居間の襖が開けられた。飛び込むように黒鬼が入ってくる。 「お前なぁ。もう少し静かにできねぇのかよ。家が壊れるだろ」 「あ、すんません。鬼姫様にまた会えたのが嬉しくってつい」  申し訳なさそうに頭を下げながら、黒鬼が謝る。そうだ、黒鬼…黒耀は身体は大きいが気が小さく、優しくて面倒見が良い鬼だった  気絶する程の恐怖を感じたのが嘘だったように、今はもう黒耀に対する恐れは完全に吹き飛んでいた。 「あの……黒耀、さっきはごめんなさい」  そう言って私は頭を下げる。 「ひ、姫様!!おいらのことを思い出してくれたんですね!!」  謝らねぇでください!と、大粒の涙をボロボロ零しながら黒耀が言う。 「ったく。ほら、泣いてる暇があるなら昼飯の用意してくれよ。鬼姫も腹へっただろ。あと、今日は景都と雅都にも早く帰ってくるように連絡してあるから。景都は遅くなるって言ってたけど……どうせ青凪に頼って早めに片付けて帰ってくるだろ。晩飯の用意もしっかり頼むぜ」  夕都さんがそう言い終わった途端、黒耀は居間を飛び出し再びドタドタと足音を響かせ、おそらく台所へと向かって行った。 「鬼姫」  呼ばれて応える間もなく抱きしめられる。メンズものの香水と煙草が混ざった匂い。知らなかった匂い。でも…抱きしめられた感覚には覚えがある。そうだ。鬼姫は夕都さんと恋仲だったっけ。そう思い出した時、 『紅姫ちゃん』  奥ちゃんの声が頭に響いた。鬼姫の恋の相手は夕都さんだ。そう、鬼姫はそれでいい。けれど私は……私はまだ奥ちゃんのことが好きだ。それなのに、私は夕都さんの腕を振り解けなかった。  私が鬼姫……ならば、あの夢に出てくる女性は一体誰?私が私を見ている?私は私で、鬼姫は鬼姫で存在している?考えれば考えるほど混乱してくる。今はまだ、真実へ辿り着くための情報が足りなすぎる。  今はただ、夕都さんの腕を振り解くことを考えたほうがいいようだ。
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