好き

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好き

名前も連絡先も聞かず、その日は別れた。 あのバーはよく行くんだ、と言っていたから、あそこに行けば会えると思った。 だけど、なかなか行けなかった。学校とバイトに絡めとられる毎日は、簡単に変わらない。 私の父は小さい頃に他界し、母と祖母が育ててくれた。大学進学の学費は父の保険金で賄えたけれど、1人暮らしの生活費は自分で稼がなくてはならない。ファミレスのホールのバイトは、ほぼ休みなくシフトを入れていた。毎日忙しかった。 やっとバーに行けたのは、あの日から1ヶ月経ってからだった。 木のドアを開くと、彼はいなかった。 バーテンのモモタさんが私を覚えていてくれて、いらっしゃいませ、こちらへ、と案内してくれた。 そのままカウンターの中でしゃがみ込んだので、あの、と声をかけると、何やらスマホをいじっている。すぐに立ち上がって、ご注文は、と聞いてくれた。 「カルアミルク、ありますか?」 「はい、あります。承りました」 するとまたしゃがんでスマホをいじる。 仕事中なのに、と呆れたけど、私は店長じゃないし、と思い直した。 カウンターだけの店内は、時間が早いせいかまだ混んでいなくて、端っこの席にカップルが1組いるだけだった。彼氏が彼女の髪を撫でている。いいなあ。私も髪を撫でられたいなー……とため息をついたとき、ドアが開いた。 彼が、息を切らして入ってきた。 会えた!!私は嬉しくて、だけど彼の名前も知らないことを思い出した。 良かった会えたー、と彼は私の隣にどかっと座った。 「ヒロさん約束ですよ、ボトルね!」 モモタさんはニッと笑った。 「よっしゃ、モモタ、ボトル!」 モモタさんは勇躍、お酒の瓶を彼の前に置いた。 「頼んでおいたんだよ、店に来たら連絡くれって。で、会えたらボトル入れる約束だったんだ」 彼は汗を拭いながら私に言った。 「あっ、それでスマホ!」 合点がいった。仕事中なのに、じゃなくて仕事だから、だったんだ。 「もう注文した?」 「うん。カルアミルク」 「覚えてたんだ、そっかー。あれから来ないから、もう忘れられたかと思った」 「学校とバイトで忙しくて。だけどずっと来たかったんだ」 「よし、乾杯しよう」 前みたいに乾杯して、飲んだカルアミルクは甘くて美味しかった。 「美味しい!これなら全部飲める」 「やっぱりなー、これは甘いもんな」 ふふ、と笑みがこぼれる。 「名前、ヒロさんっていうんだね。聞いておけば良かったってずっと後悔してて」 「俺も、連絡先聞くんだったってずっと思ってたよ」 気にかけてくれていたんだ。嬉しかった。 「じゃあ交換しよ。スマホ出して。」 連絡先を交換したら、ヒロ、と表示された。 「さえちゃんか、かわいい名前だな」 「父がつけてくれたの。伊波紗枝。よろしく、ヒロさん」 「よろしく、さえちゃん。俺は高木宏樹」 2人でコースターの裏に名前を書いた。 店を出ると、海に行った。 明日学校だから、夜明けまではいられない、と言うと、じゃあ夜中の海、と笑った。 「あの後も、泣いてないか気になって」 「大丈夫、いっぱい泣いたから、もう泣かないよ」 「良かった。元気になったんだな」 「缶コーヒー、今日は私がおごるね」 「おっ、サンキュー」 やっぱり彼の前では、私は楽にしていられる。 知りたいことが、たくさんあった。 「ヒロさん、学生?」 「若く見られるけどね、もう30になるんだよ」 「えー、見えない!」 「あんまり嬉しくないなあ」 「まさか、結婚してたりとか……?」 「ははっ、ないない!」 「良かったー、びっくりした!」 ん?良かったって何だ?自分の言ったことに驚く。 「独身主義だからねー、ずっと1人だよ」 寂しそうに見えたのは、気のせいだろうか。 「今日は泣かないから、ご褒美ちょうだい?」 「ご褒美?」 「うん。髪撫でて」 面食らった顔をして、イタズラっぽく笑った。 「えー、どうしようかな」 「いいじゃん、ちょっとくらい」 拗ねたふりをしたら、抱きしめられた。 「……会いたかったよ」 「……私も。ずっと会いたかった」 「泣いてないか、毎日気になって」 「あれからは、泣いてないよ。ヒロさんがずっと慰めてくれたから」 「幼馴染のことは、もう忘れた?」 「忘れた。……と思う。多分」 「強いな」 ふっと笑った顔が、やっぱり寂しそうだった。 「ヒロさん?」 「ん?」 「……なんでもない」 呼んでみたかっただけだった。 「なんだそれ」 ヒロさんは笑った。 「さっきね、バーにいたカップルが、彼氏が彼女の髪撫でてて、私も……」 いきなり口を塞がれた、と思ったらキスだった。 びっくりした。 「さえちゃん、好きだよ」 突然の告白。またびっくりした。温かいものが胸に広がる。そうか、私も好きだったんだ。会いたかったのは、好きだってこと。 「うん。私も。ヒロさんが好き」 私からもキスした。自分から誰かにキスしたのなんて初めてだった。ぎこちないキスだった。 そしてやっぱり、夜明けの海を2人で見た。
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