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片道
思春期の脳は混乱しているようなもの。どこかの偉い先生が、そんなことを言っていたらしい。
なら、こうやって意味もなく窓の外の夜へ逃げる気まぐれにだって、なにか勝手に意味を見繕ったりするのだろうか?
高校一年生の、夏休みの終わり際、そうして出てきた夜の真ん中に。
きっと、似たような気まぐれが重なった。
自販機の前に、一人、見知らぬ女の子が項垂れるように座り込んでいた。秋が似合いそうなチェックのアウター、長いスカート。うつむいた顔を隠す長い髪、影。表情はわからないけれど。
「こんなとこにいると余計なお節介されるよ」
はねそうな緊張をひた隠しにして、僕は彼女に声をかける。うちの目の前の自販機。そして親は早起きだ。時間がない。
そして、声をかけたことを後悔しかける沈黙を経て。彼女は緩慢に顔を上げた。
「ボクは、夜の方へ逃げたい」
感情の読めない中音域。表情はまだ読めない。目があったかも分からない。けれど。
僕は頷く。今、何が始まったのかを説明できる人なんて、きっといない。
夜を転がり落ちる。息を潜めるように、そっと、そっと。
緑の紙を刻んで刻んで黒く塗りつぶしたような道を行く。木々の隙間から覗く星に手を伸ばして、高く、高く。
「寒くない?」
こんな僕の声は、あざ笑うような木々のざわめきに紛れる。
「……うん」
そんな彼女の声は、今にも泣き出しそうな自転車のチェーンのきしみに遮られる。
見上げれば、影絵みたいな山合いから覗く薄ぼんやりとした夜空。自転車は人気のない細道を、歩くようなスピードでフラフラ登っていく。
──夜の方へ逃げたい。
言葉の意味は分からない。詳しく聞けるほど言葉を交わしてもいない。ただ、少しでも意向に添えるといいな、だなんて思いながら、木々の間を縫う道を行く。西へ。日が昇る空と、少しでも逆の方へと。
ゆるい坂道だけど息を切らして、そして、呼吸の合間に僕は耳を澄ませる。
枝葉のザワザワ。風のザワザワ。
胸のザワザワ。
後部座席の深呼吸。
ため息のような。
「……ねぇ」
思わず声をかける。反応は、あったように思う。
話題はなんだって良かった。僕はただ、名前も知らない彼女が寂しくなければいいなと思う。
叶うなら、僕も寂しくなければいいなと思う。見上げた空、ともすれば泣き出しそうな灰色の中に、微かに、星が瞬いた気がした。
「宇宙ってさ、人の心に似てるのかもしれないんだって」
そして、どこから浮かんで、どこへ流れ着くのかも分からない与太話。雲の向こう。暗闇があって、星があって……。
「星が集まってできた銀河系が集まって、それがまた集まって……そんな宇宙の想像図って、脳の細胞に似てるんだ。何で見たんだっけ」
空を集めた宇宙を集めて、浮かんだ心が、また、空を見上げる。自分で話していて、まるで合わせ鏡でも見たような錯覚に目が眩みそうになる。もしも今、流れ星が流れたりしたなら、それはきっと、誰かの気まぐれの閃きで。
──思春期の脳は混乱しているようなもの。
風がざわめく。せせら笑いみたいに。僕はただ、流れ星に偉そうな名前がついてなければいいな、だなんて思う。
「……そういう話なら」
後ろの席で俯く彼女に笑われなければいいと思う。幸いにも、彼女のその声色はきっと、今しがたの僕と似たようなもの。
「天の川を渡る距離って、光の速さで十五年もかかるんだよ。キミは知ってる?」
そして、きっとまるで、他愛もない話。人によってはせせら笑うような。
それが、僕にとっては嬉しかった。星空も霞む雲の下、どこへ行くのかもわからない、誰に笑われるかもわからない僕たちの話が、きっと、すぐ近くにいてくれた。
改めて空を見上げる。霞んだ灰色の向こうに天の川を描いて、僕は。
十五年前。物心がつくよりも前の方へと思いを馳せていく。
くすんだ中学の頃を飛び越えて、まだ色んなものがキラキラしていた小学生の頃を遡る。すべてが高く大きくなっていって、周りの笑みは眩しくて。そして、時間の流れがだんだん早くなっていって、目に追えなくなる。断片的に。光が、暖かくて。
そして。
「──ふふっ」
背後から声。今、すぐ後ろで。やまない風が、寂しくて、肌寒くて。
「キミはきっと、ボクの一つ年下だね」
きっと得意げに彼女は微笑む。その声が、分からない、やけに遠く感じた。
思い返した僕の十五光年より、きっと一年だけ先の視界から。ここにいる僕が小さく見えるような場所にいる気がして。
──思春期の脳は、混乱しているようなもの。
誰かに笑われた気がした。流れ星を探したかった。祈りを捧げた視界の先、真っ黒に揺れる木々の切り絵が片側だけ途切れた。
雲の切れ間に、夜明けが覗いた。
すぐにまた枝葉の影が落ちて、自転車は真っ暗な道を行く。だけど、せせら笑うように。風がざわめく。もうすぐ夜が終わる。
少しでも遠くへ。僕はペダルを踏みしめる。分からない。けれど、少しでも遠くまで。
風がざわめく。また誰かに笑われた気がした。一光年先から? ダメだ、もうすぐ朝に捕まる。
「──ねぇ、大丈夫だよ」
そして背後から声がする。分からない。知っている。まるで憐れむみたいに。
「いつか、分かるときが来るよ」
空が開ける。雲が薄く色づく。
「心配しないで。明けない夜はないんだよ」
分からない。自転車は駆ける。分かったふうに。でも知っている。
思春期の脳は混乱している。宇宙の脳細胞の話だって鼻で笑い飛ばす独り善がりで、飽きて、慣れていく。十五光年はまだ片思いのような距離なのに。
思春期の脳は混乱している。
明けない夜はないんだよ──
「ボクら、そんな言葉に励まされたくはないよね」
背後からの声。今にも消えそうな。
自転車のペダルが、踏み外したみたいに空回った。
思わず足を止める。風も止んで静かな、朝。夜に逃げ込むことも叶わなかった、知らない道の途中なのに。
こんな夜明けに、励まされなくたっていい。
ここに、ちゃんと僕がいた気がして、嬉しくて。少し、泣いてしまいそうなほどだった。
木々の内側が、瞬きするたびに色付いていく。白み始めた空は、もうそのうちに赤く染まる。
「……チェーン、外れたの?」
そして、背後から声。当たり前かもしれないけれど、まだ居てくれたのだと、嬉しさで顔がにやけそうになる。
「直したら、どこへ行こうか?」
両の足をついて、改めて、空を見上げる。朝に溶けた、十五光年先。その向こう。もっともっと向こう。誰も知らないような彼方に描かれる気まぐれを思って。
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