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デイブレイク
背中にあるあたたかい感触は気のせいではなかった。
もう一度、声がした方を見てみると、本当に澤崎さんがいた。
「おはよう、ございます…」
「おはようございます、飯妻さん。」
澤崎さんはそう言うと、背筋を伸ばし、太陽が昇る拝殿の方を見つめた。白い息が太陽に照らされて綿あめみたいに消えていく。
「日の出、すぐ終わっちゃいますよ。ちゃんと見ないと。」
しゃがんでいる僕を見下ろして言うと、ほら、と左手を出した。
僕は右手を差し出して、その手に触れようとしたけど、また消えてしまうんじゃないかって怖くなる。
澤崎さんの左手が近づいて僕の右手をしっかりと捕まえた。
グイっと引っ張られ、僕は立ち上がる。
目が離せない。
澤崎さんは僕を見て、あっち、と日の出の方に指をさした。僕がそちらに顔を向けると、いつの間にか手は離れた。
僕は右手をポケットに入れて澤崎さんの感触をしまい込む。
朝日が完全に昇るまで、二人並んで鳥居の前に立っていた。
ほどほどに日が昇ると、そのあたりにいた人々は散り散りになった。
何してるんですか…?
間抜けな僕の質問に、澤崎さんは答えた。
「初日の出、見に来ました。飯妻さんは?」
「朝のランニングです。日課の。」
「そうですか。今日もお仕事ですか?」
「いいえ、今日だけ、休みです。澤崎さんは、お仕事は?」
「休みです。お正月休み。会社の。」
澤崎さんは、そう言ってすこしだけ笑う。
「会社、ですか?」
「はい、私、会社員です。平日は。だから、週末の一日だけしかお店に行ってないんです。」
知らなかった。
言われてみれば、一日しかいないなんて、不思議だよな。
「この前、予約いっぱいですみませんでした。せっかく年内に来ていただいたのに。ほんの、ほんのちょっとだけ先に、指名が入っちゃって…」
そうか、いつでも空いてると思ってた僕がバカなだけだった。
「いいことです。必要とされるって、良いことですよ。だって澤崎さん、すごいから、当然です。」
「そう、ですね…。ありがたいです…」
澤崎さんは僕の方を見た。
僕の勘違いかもしれないけど、なんとなく寂しそうな悔しそうな目だった気がする。
ちょっとだけ話しづらくなった空気を壊したのは澤崎さんだった。
僕の頬についている傷用のテープに気がついた。
「なにか、悪さでもしましたか?」
ニヤリと笑って澤崎さんが言った。
それは先週、山本さんにぶたれたてできた傷をとめたものだった。まだ、ちゃんとは治っていない。
僕はちょっとドキッとして、目を伏せてしまう。
確かにそうだ。僕が悪い。
「はい。僕は悪いことをしたので、その代償です。でも、これじゃ軽すぎるくらいです。」
「もう、済んだんですか?」
「はい。もう、全部済みました。静かな日常に戻りました。」
「そうですか。それは何よりです。」
澤崎さんは少し黙ってから、また続けた。
「生まれ変わるって、聞きました。参道は、産道で、お宮は子宮で、だからお参りするのは、生まれ直すことでもあるって。」
入る前と違う自分に生まれ変われるって。
そういう考えもあるって、聞きました。
「この前、ここで会った日、あの女の子と入りましたか?この中に」
澤崎さんは僕の方を向いている。
僕は首を横に振った。
「今日は、どうしますか?入りますか?」
僕は頷いて、鳥居の下まで歩く。
澤崎さんも並んで歩いて、そのまま鳥居をくぐろうとしたけど、僕はやっぱり止まってしまう。隣から消えた僕をさがして振りかえる。
彼女はあの時と同じように手を差し伸べ、おいで、と言った。
「おいで、大丈夫だから。」
僕の手は吸い込まれる。
また消えたら、もう、それでもいい。
もしかしたら夢かもしれないけど、それでもいいや。
「行きましょうか。」
澤崎さんはグッと手をひいて僕を中に入れてくれた。
いつもより人が多いのに、鳥居をくぐったその中は、キン、と冷えて静まって、それまでの世界とは違っていた。
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