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グリード
僕たちは参道のやや左寄りを歩き、奥へと進む。手水舎は人が行き来して賑やかで、朝日にあたった水がキラキラとそれぞれの手や口を濡らす。
並んで待つ間も僕の指は澤崎さんの手の中にあった。いつもは布越しに感じる体温が、肌に直接伝わってきて、僕の神経はその指先に集中してしまう。
手水舎の前に立ち、手が離れる。
柄杓でその手に水をかけるのを、ためらって、だから少しだけ、爪先だけにした。
口を清めたとき、手にすくった水は思いのほか冷たかった。唇に触れ、その冷たさに震えていると、横で澤崎さんがクスクスと笑っていた。
その左手と唇は濡れ、そこから垂れた雫がキラリと反射して、間もなくポタリと地面に落ちた。
見惚れる時間もなく、次々来る人に押され僕たちは、すぐにその場を離れた。
澤崎さんはまだ笑っている。
「飯妻さん、ビリビリってなってましたよ」
と、両手を自分の前でグーにして小刻みに震えてみせた。
恥ずかしくて僕が苦笑いをすると、澤崎さんは、いい顔です、と言った。その口元は広角が上がり、薄っすらと開いた唇の隙間から行儀よく並んだ白い歯がチラリと見えた。
いつも隠れている場所を見ていることに、なんとも言えない恥ずかしさを感じ、僕はやっぱりこの中に入っちゃいけなかったんじゃないかと思った。
「私はね、よく来るんです。ここに。」
澤崎さんは僕を見て言った。
「都合がいいですけど、ここに来て、神様にもやもやしたものをぶん投げて、また次の日から始めるんです。」
あっけらかんと話す澤崎さんは、もしかしたら僕を慰めてくれているのかもしれない。
「ありがとうございます。気を使わせちゃってごめんなさい。僕、変な顔してましたよね。」
「いいえ、してませんよ。初めてお店で見た時はすごかったですけど…ふふふ…」
「やだな…恥ずかしいです。」
イイ顔ですよ。やる気が出ましたから。
そう言って澤崎さんはまたニヤリとした。
僕は外してあったネックウォーマーをまた被り、鼻の上まで覆って恥ずかしさを隠した。
拝殿の前で手を合わせ、澤崎さんを盗み見る。
もみあげから耳の後ろに向かってきれいにカットされた短い髪。ピアスの穴だと思っていた三つの点は、一つだけが穴で、あとの二つはホクロだった。
耳たぶの後ろの襟足までの、後ろ髪の生え際の皮膚が見える。ほんとは毛穴まで見えるくらい近づきたい。
寒さのせいか、毛細血管が薄っすらと見えるのか、なんとなく赤くまだらになっている。
(なにをお祈りしてるのかな…。)
こちらに顔を向けようとした澤崎さんと、一瞬、目が合いそうになってあわてて前を向いた。
近づいて、触って、圧されて、潰されたい。
ぎゅうぎゅうに圧迫して、僕を潰して。
僕は、神様にお願いするようなこととは程遠い、欲まみれの願望しかなかった。
たぶん罰があたる。
人混みを抜けて、また鳥居まで戻ってきた。
中から見る鳥居も、やっぱり綺麗で、艶艶しく、開かれていた。
先を歩いていた澤崎さんはまた、手を差し出して、僕を鳥居の外に出してくれる。おめでとうございます、と言われたけど、無言でうなづくのがやっとだ。
「お願い事、しましたか?」
聞かれて、僕の心臓は割れそうだった。
その手で圧されて、思いきり潰されたい。
(お願い、僕を、潰して…)
そんなこと、言えない。だから、
「わ、忘れました・・・」
と、言った。
早くしないと、バレちゃう。
僕の頭の中が全部、澤崎さんにバレてしまう。
心臓の音だって、聞こえてしまうかもしれない。
早く、帰らないと。ここから、離れないと。
僕は耐えきれなくて、どんなふうにしたか覚えていないけど、とにかく逃げるようにアパートに帰った。
走ったか、歩いたか、それすらもわからない。
部屋に戻って、シャワーも浴びずにソファの上で丸まっていた。
澤崎さんと繋いだ手を唇にあて深呼吸を繰り返す。
呼吸が落ち着くまで、ずいぶんと時間がかかった気がする。
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