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飯妻とわたし
わたしの手からすり抜けた飯妻は、さっきまでの溶けるような顔を隠して走って行った。
僕を、潰して
すごくすごく小さな声でつぶやいた飯妻は、ほしい答えをすべて持っていた。
なのに。
「帰っちゃった・・・」
わたしは、行き場を失ってうずうずと震える右手を握りしめ、ポケットにしまった。
三が日、お店にいるって言うのを忘れちゃった。
あぁ、触りたい。思い切り沈ませたい、あれに。
飯妻の体は、わたしの手を飲み込む。
ずぶずぶと飲み込んで、中の筋肉を直接触らせてくれる。だからわたしはやめられない。あれに触りたくて仕方がない。やればやるほど答える筋肉は、素直で反応がいい。しなやかで、布越しでもよくわかるほど、強い。
それに、近くにいるときの飯妻の顔は極上なのだ。
一重の重苦しい瞼から下向きに生える密度のある睫毛は、しっとりと黒く光っている。その後ろには半分しか見えないつるつるの瞳。水の中にいるみたいに滲んで、その視線はずうっとこっちを向いていた。体に触れると、さらにとろとろと、粘度を増して絡んでくるのだ。
あんな顔、わたし以外に見せたくない。
距離、詰めすぎちゃったかな。
あぁ、あんな顔されたら、タガが外れちゃう。
飯妻はいつもいつも同じことを訴えていた。目や表情や皮膚や筋肉で。
僕を触って
僕を潰して
僕を助けて
強くしすぎた日、わたしをこっそり見ていた。飯妻を触っているときのわたしは、多分ひどい顔だったと思う。だけど、見られて、全身の毛が逆立っていくのがわかった。
わたしはあれに、触りたくて、沈みたくて、仕方がない。
三が日は毎年混み合うからスタッフを増やしている。お客さんが切れることはなかったけど、わたしは少しも楽しくはなかった。
圧して、潰して、溶かしたい。
その沼に、わたしを飲み込んで、沈めてほしい。
禁断症状。わたしの手が欲しがっているものはあれしかない。
だけど、全然、来ない。
2月の終わり、他の曜日のスタッフからヘルプがかかり急遽シフトが入った。年に数回、こういったことがある。セラピストは業務委託だから、シフトの穴は自分たちで埋めなくてはいけない。会社が終わるとすぐに着替えて店に向かった。
他の曜日は客層も違うから新鮮だけどちょっと疲れる。仕事を終えて帰る前にとなりのコンビニのイートインでコーヒーを飲んでいた。一息つきたい。このまま家に感情を持ち帰りたくない。
元旦から続く手のうずうずは、今は全身に伝わって、毎日それを沈めるのに苦労する。毎朝、自分で自分をぎゅうと抱きしめてから起きなくちゃいけない。そして寝る前も、ジリジリする身体を落ち着かせるのにさらに苦労する。
コーヒーを飲み干して外に出ると、煙草に火をつけた。わたしの手は、まだふるえている。
これ、いつおさまるんだろう。
「はあぁ・・・」
苛立って、溜息といっしょに煙を吐き出す。
煙草を消そうと手を伸ばした時、建物の影からガシャンと大きな音がした。
驚いて覗き込むと駐輪所の自転車が倒れていた。
そばに一人、人が立っている。
その顔は良く知っている。
その表情もよく知っている。
気を抜くと爆発しそうだ。
わたしは深呼吸してから声をかける。
「こんばんは。なにしてるんですか?」
暗くて、ぼんやりだけど、わたしにはその男の睫毛までよく見える。
「ダメじゃないですか飯妻さん、そんなになるまでほっといたら。」
その顔は、助けて、って言っている。
初めて店に来たあの日と同じだった。
(僕を、潰して。)
飯妻の小さい小さい元旦のつぶやきは、ずっと私の耳に残っている。
「仕事が増えちゃって、いつの間にかこんなに時間がたってしまって、もう限界なんです。」
「なんで来ないんですか?」
「おかしいんです。僕は。変なことばっかり考えちゃって。困ってます。」
わたしも、困ってる。ふるえが止まらない。
飯妻は両手で、顔も頭もくしゃくしゃにして訴える。
「でも、一度いい状態の体を手に入れちゃったから。戻りたいのに・・・どうしてくれるんですか・・・これ。」
わたしはその場に倒したくなる衝動を必死に堪えていた。
「仕事、そんなに大変なの?この世の終わりみたいな顔してますよ。」
「春からエリアの編成が変わるんで、マネージャー職が空くって、今いるところの社員さんが、なぜか僕を推してくれて。待遇もかわるって。引継ぎとか、研修とか、すごくて。」
「良いことですね。必要とされるって、嬉しいじゃないですか。」
「はい。でも、肉体的にも精神的にも、もうギリギリで・・・」
「この手が、欲しいですか?」
飯妻は元旦の鳥居の前と同じ顔をしてそこに立っている。
「潰されたいって。小さい声で聞こえました。気のせいですか?」
絶望的な顔。たぶん、無意識に声に出したのかもしれない。わたしの全身の毛がいっせいに逆立つ。つい、口角が上がってしまう。
「だめですよ。どうして欲しいか、ちゃんと言わないと。」
わたしは少し近づいて、触れる場所を探す。サイズの大きな上着の袖口から、指先が出ているのが見えた。やっと触れる、そう思ってゆっくりと袖から潜り込ませると、手首から手のひら、指先に向かって滑らせ、指を撫でる。
飯妻は眉をしかめて切ない顔を見せる。
そして、中からわたしをキュッとにぎって、一歩近づく。
耳元で震えた声が聞こえる。
お願い、その手で、圧して、潰して、全部、溶かして。そして、手だけじゃなくて、全部を、僕にください…
「もう、限界。僕を、助けて・・・」
その言葉に、身体がのけぞって、わたしの方が先に溶けてしまいそうだった。必死で抑え込んで呼吸を整える。
「よく、できました。」
わたしはまだ耳元にいる飯妻の方に顔を向けると、すぐ横に見える耳朶に嚙みついた。
とてもいい声が聞こえ、つないでいる手がふるえるから、嬉しくなってもう一度噛む。
全身をびりびりとさせる飯妻がかわいくてたまらない。気が付くとわたしの身体の震えはすっかり止まっていた。
「うちに、施術用の道具が揃ってますので、今から来てください。」
パッと顔を離してこちらを向き、目を丸くして飯妻は慌てている。
たのしいなぁ。
「来るの?来ないの?」
「行く、行きます。行くけど、もう普通じゃないですよ、僕は。」
「普通じゃない?そんなことわかってますよ。あなたはずっと狂ってます。」
普通の人間はそんな顔しないし、わたしのやることに嬉しそうに反応しません。
コンビニの横で耳を噛まれて声なんか出しませんよ。
どんどん目が滲んで、顔が上気する。
「あなたの欲は二つあるので、まずは一つ目を解消します。大丈夫です、たぶん寝ちゃいます。」
まだ繋がっている手に力が入る。
「二つ目は、どうしようかな。良い顔をたくさん見せてくれたら、ご褒美を考えますね。」
目の前の飯妻は、力の抜けた唇を震わせてふにゃふにゃと笑っている。
わたしはまたこれに触れる嬉しさに武者震いした。
手を伸ばしてその唇を触ると、熱くなった息が指にかかる。親指と中指で顎を挟み、人差し指を隙間からねじ込むと、飯妻は目を泳がせて戸惑っていた。舌の上に滑らせた人差し指に力を入れる。だんだんと口が開いてきて呼吸も荒くなる。唾液があふれダラダラと伝い、わたしの指を濡らした。
わたしは満足して手を離す。唾液で濡れたままの指を差し出すと、飯妻は慌ててポケットからハンカチを出し、丁寧に拭いた。上出来だ。
少しだけ頬を撫で、わたしは歩き出した。上出来の飯妻は自転車を押してしっかりと後をついてくる。
おそらく飯妻は、わたしが今すぐにでも自分を触って、潰して、溶かして、吸い尽くしたいのを必死で我慢しているなんて知らないだろうな。
振り返って見えたその姿は、わたしの内臓をかきむしり、その場で昇天させてしまいそうなほどに強烈だった。
end
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