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手の人
わたしのかわいいひとたち「指名客 飯妻」より
https://estar.jp/novels/26198624/viewer?page=5
「ハンサムと僕」
【手の人】
疲れたなぁ
もう嫌だ…
身体が悲鳴を上げている。
少しでもいいから楽になりたくて、僕は仕事場の近くのリラクゼーションサロンに行くことにした。
こういう店は年に一度くらい、限界が来たときだけ仕方なく入るけど、満足した例がない。
グリグリ押す痛い手を我慢してもいいから、少しでも楽になりたい時にだけ行く。
我慢と限界を天秤にかけて、行くかいかないかきめる。
今の職場になってから、近くにある店にはじめて入ってみた。
たまたま担当になったのは、声の低い落ち着いた女の人だった。
ユニフォームは黒いポロシャツで、皆似たような黒っぽいズボンを履いている。
その人は耳や頭にもなんの飾りもなく中性的で、さっぱりとしていた。
短く切り揃えられた爪がとてもきれいだ。
ナチュラルカラーのマスクをしているから目元だけしかわからないけど、濃いめの茶色の瞳は吸い込まれそうに深い。
少しだけ見える耳下の顎の角度が鋭かった。
マスクを取ったら、もっとよく見えるだろうか。
(少年みたいだな…)
襟足は短く、前髪は少しだけ目にかかっている。
まつ毛は特に長くは無いが、密度濃く、下向きにしっとりと伸びていた。
耳たぶに、あれはピアスの穴かな、3つの点があった。
照明を落としたフロアに仕切りだけの空間が続き、各ブース内で膝上くらいの高さの特殊な形のベッドが置かれている。
(個室になっている店もあったけど、仕切りだけの店は比較的健全な印象があるな。でもなんか、落ち着かなそう…)
はじめに簡単なカウンセリングを受ける。
しばらくすると奥のベッドに案内された。
その人は細かく説明して誘導してくれる。
仕切りの中に入ると、順番にテキパキと指示をしながら、僕の体勢を決めてくれるから、わかりやすく動きやすい。
「こちらの穴が空いてるところに顔を、ええ、こちらにお願いします。顔のクッションにそのままつけちゃって下さい。うつ伏せに。胸の下にも入れますね。苦しくないですか?左腕は楽な状態でいいですよ。必要なときに動かしますので、その時は声かけますね。大丈夫ですか?」
「あ、はい。お願いします。」
僕は、声が小さい。
昔からとても小さく、聞き返されることがおおい。
だけどその人は、カウンセリングのときから一度も聞き返すことなく、すぐに返事をしてくれていた。
「では背中から、失礼します。強いほうが良ければ言ってくださいね。」
なんだか、いつもの怖いような気持ちは、あまりなくなっていた。
その人の手のひらは温かく、じんわりと染み込んで身体の中に入ってくるみたいだった。
痛くするのが普通だと思っていたから、少し拍子抜けしていた。
こんな感じは初めてだ。
(何だこれ。すごく気持ちいい気がするんだけど…圧迫感がすごい、いい…)
「かなりお疲れですね。もう少し強くしますか?それともこのままのほうがいいですか?」
背中全体を触ってから、様子をうかがうように聞いてくれた。
「ちょうど、いいです。これが、いいです…」
何言ってんだ?
もう少しマシな答え方あるだろうが。
しかも、また小さい声で…
「良かったです。ちょうどよくて。ゴリゴリやるより時間かかりますけど、筋肉にはこの方が良いので、このままやらせてもらってもいいですか?」
その人は、楽しそうに言って、また、手のひらから気持ちの良い圧迫をくれた。
(まるで直接触ってもらってるみたいだな…)
この店今までで一番良いや。良かった、痛くなくて…
それにこの手…めちゃくちゃ……温かい…
今日僕は、こういう店で初めて寝てしまっていた。いつもは痛くてそれどころじゃないから
気付いたときにはほとんど終わっていた。
(寝ちゃうともったいないな…)
最後にその人は今の身体の状態を教えてくれた。
そして、すごく褒められた。
僕の筋肉は戻りがいいらしい。
だけど、夜寝る前にだけでもストレッチしておくように、って言ってた。
ずっと身体がぽかぽかして、風呂から出たときみたいだ。
店を出てすこしだけ恥ずかしくなった。
仕事が終わって汗臭い作業着のまま来てしまっていたから。
だけど、あの『手の人』はぜんぜんいやそうな顔してなかったな。手のひらも、別に、嫌そうな感じは来なかったし。
まあ、仕事だもんな。
そのくらい普通なのかもな。
僕は自転車に乗って家に向かう。
コンビニでつまみと酎ハイを買って商店街をゆっくり走った。
(なんか、軽いな、身体…)
その日僕はいつもより早い時間に眠りについた。
久しぶりに見た夢の中で、『手の人』はずっと、僕の身体をじんわりと溶かしてくれていた。
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