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自覚を与えて①
目の前に置かれた、気泡を含んだ美しい碧の液体。
それがどんなカクテルなのかよく確認もせずに、喉の渇きに任せて呷ってしまったことを、後の自分は死ぬほど後悔することになるのだ。
見た目が美しいモノほど、奧に何かが潜んでいるものだというものを知りながら。
それは、花でも、人でも。
そして、こんな一杯の他愛ない酒ですら。
*
*
数ヶ月にわたって交渉を重ねていた商談は、佳境を迎えていた。
嫌味にも高級ホテルのラウンジなどで最後の契約交渉を、と持ち掛けてきた相手は大知より年上のいけ好かない男だったが、それさえ我慢すれば見返りは大きい。
おそらく商談は上手くいくだろう。客の要望を120%網羅したプレゼンの勝利だ。
あと一押し。だが、そう思っているのは相手も同じだった。
目の前に置かれたカクテル・・・きっと気に入るからと「どうぞ」と促される。
まるで大知がそれを飲み干すまで、受諾のサインはしないと言わんばかりに。
大知はいくら酒が好きでも、仕事中には呑まないようにしていた。
それに、交渉の場で呑む酒にはロクなものがない。契約内容を有耶無耶にされても酔って気付かない、なんてことになるのは愚の骨頂だ。
そうは言っても、酒を勧められる機会は多かった。
大知は決して下戸などではなく、後輩の真白には及ばないものの、酒はそこそこ強く、そして飲み慣れていたため、カクテル一杯で酔いつぶれるなんて事は無いと思っていた。
だからこそ、商談成立へ、あと一押しとなった今。一杯だけならと、長時間に及んだ話合に喉の渇きも憶えていたことも相まって、大知は目の前の美しい色をしたカクテルを呷ってしまった。
程良いライムの酸味は口当たりが良く、嚥下した後に仄かに残る爽やかな甘みとアルコール特有の心地良い熱さ。その美味さから勢い良く飲み干した大知に、相手はもう一杯どうですかと勧める。
この位のカクテルならばいくらでも呑める、などと思ったのが運の尽きだった。
強い酩酊感に襲われはじめ 、これマズイと頭のどこかで警告音が鳴り響く。
前もって、商談後は社には戻らず直帰すると他の同僚に伝えてあった。
その事は、恋人で 同棲している深山にもメールしてあった。今日は商談で遅くなると。
彼は大知が外で酒を飲むことを嫌う。
それは大知が勝手に深酒をして誰彼構わず絡み、勝手にどこでも寝落ちるかららしいが・・・今回の己の醜態を知れば彼はまた怒るだろうか。
怒られても、これは一応業務の一環だけど。
だから 酔っ払った理由くらいはちゃんと聞いてくれるだろう。そんな事が脳裏をよぎる。
まずは帰らなければ。きっと彼が待ってるだろうから。
独り暮らしの時は確かに気楽だったが、誰も待っていない家は時折寂しさを感じさせた。
その感情は当時は漠然としたもので、それが寂しさというものだと最近まで気付きもしなかったが、今ならわかる。
誰かが待っている所へ帰る安心感が。
かつての寂しさが何だったのか。
だから、早く帰らなければ。
サインの入った書類を鞄に押し込み、大知は今回の商談がまとまったことに礼を言って立ち上がった。その瞬間、
「────っ」
激しい眩暈と共にふわふわと定まらない足の感覚に大知はよろめいた。
腰掛けていたカウンタースツールに思わず手を着いてしまう。
そこで聞こえた「大丈夫ですか?」というあまりにも冷静な声と、肩に置かれた手の感触と、
「実は上に部屋を取ってあるんです。そこで休まれては?」
この状態に陥った経緯とその言葉が意図することが有り難くもなくすぐに結びつき、大知は今更ながら血の気が引いた。
男に口説かれることなど、滅多にないはずだ。なのに、近頃なんだかおかしい。
野郎にねちっこい痴漢をされたことも記憶に新しい。
どうしてこんなことになったのかと、酔いに撹拌される頭で思考する。
目の前の商談相手も、もしかして大知を今までそういう目で見ていたというのだろうか?
もしかしたら、これまでの商談の中でそういう態度を仄めかしていたのかもしれないが、大知は気付きもしなかった。
この成り行きを深山が知ったならきっとまた苦言を呈することだろう。なんて鈍いのかと。
かつて友達だった深山が寄せてくれていた気持ちですら、己は気付かなかったのだから。
そこを深山は最初は時間を掛けて、あとは怒濤のように好意と愛情と執着を大知へ知らしめ、大知はそれに引き摺られるかのように彼のことを友達以上に想うようになっていった。
きっと意識しないだけで最初からそれ以上の存在だったのかもしれないが、そんな互いの微妙な距離に気付きもせず、気にも留めていなかった。己を取り巻く人間関係を顧みようとは露程も思わなかった。
深山はそんな大知の事を、鈍すぎる、人の事を分ろうともしない、言葉が通じない、と指摘した。まるで責めるように。
そして、今までのツケを払えと言わんばかりに我が物顔で大知の全てを独占していった。それは今も尚。
酔いによろめく大知の身体を支えようと、背に回される腕が、それとなくラウンジを出ようと促す手が、鳥肌が立つほど不快だ。
酒を勧める者の真意に気付かず、酒すら見た目だけで判断し、結果を慮ることなく口にした己の軽率さを後悔しながら大知は必死で固辞しようと相手を押しのけた。
だが、大知の焦燥を見透かすように耳元へ囁かれる。
────貴方は他人からどう見られているか考えたことがありますか?
────貴方はとても魅力的だ。とても。
気の利かない陳腐な口説き文句に、いっそ笑いたくなる。
魅力的などと野郎に讃えられても少しも嬉しくない。
どう見られているか?
同性に性欲を抱くなんて有り得ない。
なのに、かつて深山に迫られ散々好き勝手された時には、口から文句は出ても気持ち悪いとは思わなかった。ただ信じられなかっただけで。友達のままで良いじゃないかと、都合の良い事ばかり考えて。
とにかく早く帰らなければ彼に怒られる。
それはもう、嫌味たっぷりに。
過去の思惑に囚われながら男を押しのけようとした大知の手はあっさり避けられ、更に身を寄せてきた腕を腰へまわされた。
「貴方の社と・・・貴方とは、是非これからも良好な関係を築いていきたい。貴方さえ良ければこのまま契約を五年延長しましょう」
何をふざけたことをいっているのか。枕営業などする気は無い。
腰に回された腕を振り払い、すでに酔いから込み上げていた重い頭痛も厭わず、馬鹿にするなと大知は怒鳴ろうとした、その時。
俯いていた大知の視界に、つかつかと歩み寄ってくる足元が見えた。
鬼気迫るような勢いで近づいてくるその動作に目を奪われていると、ふいに腕を取られて力強く引っ張られ、思わずよろける大知をその人物は難なく抱き留めた。そして、
「契約延長の申し出でしたら後日、書類上でするべきだと思いますよ。こんな契約相手を酔い潰して確約を得ようなんてしなくてもね」
なんとも慇懃無礼で尊重に欠けた声が頭上から聞こえてくる。
この声が非常に聞き慣れたもので、酔った頭の中で一番聞きたいと思っていた声だったことに大知は気付き、驚いて顔を上げた。
「み、深山・・・」
だが、大知が名を呼ぶ前に、腕が引っこ抜けるのではないかという強さで引っ張られ、もつれるような足元すらすくい上げるような力で彼は歩き出した。それよりも、
「どうして、」
どうして、ここに大知がいるのが分かったのか。
面倒な状況に追い込まれていること、そして一番逢いたいと思っていたことを。
もう一度名を呼び、尋ねた大知に、深山は冷淡な声で ワケは帰ってから、と返してきた。
その声音を聞いて、彼が非常に激怒しているのを感じ取って戦慄したが、停まっているタクシーに押し込まれ、走り出す頃には再び激しい眩暈が襲い、安堵もあってかそのままシートにもたれて深く眠ってしまった。
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