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ラムネの記憶
◇◆◇
その日は、サトルと優希くんの婚約パーティー日だった。
僕はサトルと高校時代からの友人で、優希くんは葵の幼馴染だ。大切な二人の門出を祝う場がオールソーツだと聞いた時、二人らしいなと嬉しくなった。
その数日前に弟の葵と再び連絡を取り合うようになっていた僕は、店に行く気まずさも無くなっていたため、サトルからの招待に迷いなく参加すると伝えた。
主役の二人は幾多の困難を乗り越えて、あの場に立っていた。そもそも出会いが小児性愛者の治療だという。患者の優希くんと、医師のサトル。その治療の中で愛し合うようになり、そのおかげで治療も進んだ。
優希くんは、今やその装具全てを外していても、ホルモン値に問題が出ることが無くなり、治療は完了したと言われている。その成果を挙げた人として、サトルと共同研究者の有木さんは表彰された。
「蓮、来てくれたのか。ありがとうな」
僕はオールソーツを訪れたのは初めてで、葵らしい気遣いの多い内装と設備に感心していたところだった。そこへサトルと優希くんが二人揃って挨拶に来てくれた。
「少し遠かっただろう? 悪いな。どうしてもここでやりたかったから」
サトルがそう言って視線を送った先には、たくさんの人に囲まれて談笑する葵の姿があった。弟の葵は、昔からああだった。明るくて、気さくで、何でも出来て、腰が低い。
学生時代には、物覚えがよく勉強しなくても成績が良かったことから、よく妬まれて友人は少なかった。でも、今のカフェ店長という仕事は天職だったのだろう。たくさんの常連さんに愛されていて、いつも笑顔で働いている。
「蓮兄さん! 来たんだね。そりゃ来るよね。サトルのハレの日だもんね」
太陽のような笑顔を振りまいて、手を振りながら葵がこちらへと走ってくる。まるで子犬のように可愛らしい笑顔で、ミドリちゃんからおっさんと呼ばれていたとは思えない若さが弾けていた。
「今日は仕事休んだの?」
「うん、支配人がいるから一日くらい大丈夫だよって。そう言って、シフト見たらしっかり二日間休みにしてくれてた。だから、今日は後藤さんがホテルの部屋をとってくれてるんだ。聞いてない?」
「後藤さんが?」
葵はカウンターの手前にあるテーブル席で、沙枝姉さんと一緒にいる後藤さんの方を見つつ、「聞いてない。いつもそうなんだから」といいながらも微笑んでいた。
三人がポリアモリーで、三人で対等な関係で付き合っているということ、沙枝姉さんのお腹には新しい命が宿っているということは、ここに来る前にすでに聞いていた。
後藤さんは僕と実業家としての付き合いがあり、月に一度ほど会合の後の食事会で顔を合わせる。十八の時に家出同然に別れた姉と弟の暮らしぶりを、後藤さんはいつも僕にそれとなく報告してくれていた。
「そうなんだ。じゃあ、これ終わった後に……」
その時、僕の右ポケットのスマホが震えた。そのスマホは、呼び出し専用だ。話はしない、テキストも送らない。それが鳴れば、かかってきたホテルのペントハウスへと向かうだけだ。
——今日はダメだって言ってたはずなのに……。
「兄さん? どうしたの?」
葵が目の前にいるのに、昨日の恐怖が蘇ってきた。
『やめてください! やめて! もう……いやだあ!』
仕事に差し支えてはいけないからと、服で隠れるところを何度も素手で殴られ、血が滲むほどの歯型をつけられ、鞭を振るわれ……首を絞められた。
恐ろしくて、気が狂いそうだった。もういっそ狂って終えばいいのにとすら思った。
——また今日もあれを?
体が震えて、立てなくなった。
「兄さん!」
親友の祝いの日に、僕は弟の顔に泥を塗ってしまった。恐怖で気を失って倒れ、用意されていた食事を薙ぎ倒した。優しい弟は、周りの惨状に目もくれず、僕のことを心配していた。
『世理。俺が運ぶから。お前は戻れ。主役だろう?』
薄れゆく意識の中で聞いたその言葉。低くて、優しくて、角のない、まあるい声。それが、僕が初めて聞いた綾人さんの声だった。
◇◆◇
「あれ、僕……」
気がつくと、ダークオレンジの光の中にいた。少し前に聞いた気がする。ここは、多目的ルームだろう。オールソーツには、日替わりで色々なワークショップをやっている部屋があると聞いていた。
小さな子供が一人でうろうろしても大丈夫だと言えるように、床にクッションがひいてある。そこに毛布が敷かれ、僕はその上に寝かされていた。
「気がついたか?」
突然声をかけられて驚いた。驚いた拍子に思い出してしまった。手枷をつけられ、目隠しをされ、誰だかわからない人から『気持ちいいか?』と聞かれた日のことを。
「……ッ!」
声を出すことが出来ず、口だけをぱくぱくと動かしていると、金髪でピアスだらけの大きな男がこちらへと近づいてきた。
見るからに遊んでそうな風貌で、しかも危ないことをしてそうだった。そういう奴らも、僕の体を蹂躙することがある。
——逃げなきゃ、逃げるんだ!
背中を見せずに、相手から目を離さないようにしながら後ずさり、逃げる準備をした。
「おい? どうしたんだ? まだ寝てた方が……」
そう言って金髪男は僕の手を掴んだ。その途端、出なかった声が喉を震わせて音を作り出した。
「離せ! もう嫌だ! 痛いのも苦しいのも……嫌だ!」
叫びながら男の腕を弾き飛ばした。その衝撃で、左のポケットに入れていたピルケースが落ちた。
薄いアルミケースのそれは、クッションの効いた床に落ちると、カシャンと音を立てて蓋が壊れた。
それと同時に、白く丸い錠剤がバラバラと散らばっていく。僕はそれを見て、希望が失われていくように感じた。
「だめ! ダメ! なくしちゃダメ! 全部飲まなきゃ!」
そう言ってそれを集め、そのまま一気に飲み干そうとした。口元に押し当てて、それを飲み込もうとした途端、金髪男が僕の手を叩き、口に食らいついてきた。
「んっ! んん、んんんんん!」
口の中を男の舌が這い回る。僕は乱暴なキスをされたことで、またパニックを起こしかけていた。男が一瞬口を離した瞬間に、逃げようとしたけれど、力で全く敵わなくてびくともしなかった。
「やめっ……!」
そしてまた口に食らいつかれた。食らいついて、舌を這わせ、離すという行動を繰り返している。何がなんだかわからないけれど、いくつか飲み下したラムネが効いてきて、僕は膝から崩れ落ちた。
「……いつからだ?」
男は僕を睨みつけながら何かを訊いている。なんのことだかわからない僕は、その言葉を無視した。さっき少しだけお酒を飲んだからだろうか。ふわふわしてきて、とても心地良くなっていた。
「こんな大量のアセトアミノフェン、いつから持ち歩いてるんだ?」
僕はその言葉にピクリと反応した。ラムネのことを訊かれているようだということはわかった。でも、なんで解熱剤の話をしているんだろうかと訝しんだ。
「お前、これが何かわかってないのか? 表は確かにラムネだ。でも、中身はおそらくメーカーがバラバラのアセトアミノフェンだ。これだけ大量にあると、独特の匂いがするんだ。俺は医者なんだよ。そして行動抑制の研究のために製薬会社にもよく行く。だから間違いない。こんな小細工をしてまで、なんでそんなに大量の鎮痛剤がいるんだ?」
その瞳に、燃えるような正義感が宿っているのがわかった。見ず知らずの僕のことを心配して、本気で怒ってくれている。
——素敵な人だなあ。
「さっきスマホが鳴ってたから、俺が名乗ってあんたが倒れたことは伝えた。母親だったらしいぞ。今日はこちらで預かると言ってある。あんた、宿泊先はどこだ? 葵の兄さんなんだろう? 葵のところに泊まるのか?」
僕は唖然とした。母さんが電話して来た。それは、あの狂った宴がキャンセルされたということだ。それは嬉しいことだった。ただ、もし次があった場合、僕は生きて帰れるのだろうかと思うとまた恐ろしくなってきた。
「か、帰らないと」
震える手を抑えながら、必死に立ちあがろうとするけれど、足に力が入らなかった。どう転んでもうまくいかない。絶望感しかなかった。
「おい、どうした?」
金髪の男が僕の手を掴んだ。僕は手を掴まれるとパニックを起こす。男はどうやら気がついたようで、「悪い」と言って離れようとした。でも、もう遅かった。
「こ、殺してください。もう嫌だ。痛いのも、苦しいのも、熱いのも嫌だ!」
男は、僕の喚く言葉の中から、僕が置かれている状況を察したらしい。ふわりと僕を抱きしめると、とびきり優しい声で話しかけてきた。
「お前、もしかしてDVされてるのか? それが辛くて薬を……? それも、相手が飲むように仕向けたんだろう?」
優しく抱きしめられて、甘く語りかけられたことで、僕の体から力が抜けていった。言われたことも理解できた。黙って頷くと、男は深いため息をついた。
「市木の家は問題だらけだったんだな。世理にも相談できなかったんだろう?」
僕は俯いた。サトルに言えるわけがない。これから幸せになろうとしているサトルに、そんなことが言えるわけがない。
「もしかして、好きだった?」
「え?」
思いもよらない一言が飛んできて、僕は驚いてしまった。しかも男は、「実は俺もなんだよね」と言って苦しそうに笑った。
「片思いし続けて十年以上だな。あっさり佐藤優希に持ってかれた。あんたもなんじゃないの?」
——どうしよう。何か言わなくちゃ。
この男は危険だ。僕が隠して来たことを、全て知ってしまうかもしれない。
『どういうこと? あなた、男が好きなの? 全く、沙枝といい、葵さんといい、ろくな人間がいないのね! ……いいわ、じゃああなたは私のいうことを聞いてちょうだい。後継が残せないのなら、お金を産みなさい! あなたを気に入っている方がいらっしゃるから、その方に身を売って、スポンサーにつけて頂戴』
サトルが好きだということだけは、バレないようにしたかった。僕たちの友情だけは、無いものにしたくなかったんだ。
「言わないで! あなたはサトルに近すぎる。サトルの友人なんて数えるほどしかいない。僕以外は、オールソーツの人間か、研究所の人だ。あなたは研究所の人でしょう? うっかり言われても困るんだ! 僕はそれを隠すために……」
男は僕を抱く腕にゆっくりと力を込めた。きつく抱きしめているけれど、痛くなくて、甘い苦しみだけがあった。急に何かが満たされたような気がして、思わず「ッツ」と声を漏らした。
「言わないよ。俺だって同じだし。だからさ……俺たちセフレになって、お互いに慰め合わない? 俺が抱いてあげたら、あんた薬使う量が減らせるかもしれないだろう?」
「……はあ?」
突然の、突拍子もない申し出に、僕は驚いてしまった。僕が驚いて狼狽えていると、抱きしめる腕がさらに狭くなって、男の頬が近付いてきた。
——あ。あったかい。いい匂い。……なんか、嬉しい。
ぎゅっと抱きしめられ、その温もりに癒された。こんな風に優しく満たされたのはいつぶりだろう。胸が苦しくて、ぎゅっとして、温かい涙がこぼれ落ちてきた。
「あ……なんか、なんだろうなコレ。すっげ満たされる……」
同じことを考えていた。僕はそれが嬉しくて、男の目を見たくなった。身を捩って男の顔を見た。そこには、熱に濡れた目があった。まっすぐに僕を見ていた。
「あんた、蓮って言うんだっけ?」
ノーズキスをしながら、男は言った。僕は「そう」と言って頷いた。そして、僕からもノーズキスを返した。
「あなたの名前は?」
男は鼻をぴたりと止めて、じっと僕を見つめていた。そして、下腹に響く低音でその名前を教えてくれる。
「有木綾人」
その名前をいい終わるか終わらないかのうちに、深くゆっくりと唇を合わせてきた。
——神様。
突然降って湧いたような出会いに、僕たちはクラクラとめまいを覚えていた。
——この人との時間だけでいいです。
十年虐げられて来た。父も気がついてはいるようだけれど、何も手を回せずに困っているのはわかっている。
——こんなに幸せな時間があるなら、耐えます。
「綾人さん……」
これが、僕が初めて綾人さんの名前を呼んだ日。僕たちが、サトルへの思いを本当に断ち切って、ラムネを手放す準備を始めた日のことだ。
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