忘れられない後ろ姿

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忘れられない後ろ姿

ブ────── ッ! 講義に遅刻する、走り寄り慌ててエレベーターに乗り込んだ途端、ブザーが鳴った。 あ…… 重量オーバー? 僕? 降りなきゃ…… だよね。 どうしよう、次の講義はめちゃくちゃ怖い教授なんだよな…… 遅れて講義室に入ってくる学生を、思い切り睨みつけて何かひと言絶対に言うんだ。あんなの耐えられない。 講義室は七階だもん、階段で上って行ったら間に合わないよな…… 一瞬でそんなことを思ったけれど、周りの視線が痛い。 すみません、とばかりに頭を下げてエレベーターを降りようとした時、腕を掴まれて引き戻された。 え? 少し強い力だったから、腕を掴んだ人の胸板に触れてしまう。 厚い胸板で、ふわっと、ほのかにいい香りが鼻の奥をくすぐった。 そして、きらりと光るプレートネックレスが目に入った。 「俺、降りるから」 ひと言だけそう言って、その人がエレベーターから降りると、誰かが「閉」のボタンを押したようで、扉が閉まり始めた。 「あ…… 」 咄嗟のことでお礼も言えなかった。 その人が去っていく後ろ姿を見つめていた視界が、エレベーターの扉で覆いつくされてしまう。 厚い胸板とはかけ離れているような、すらりとした背格好、扉が閉まる寸前にそんなことを思った。 ふぅー、間に合った。よかった。 あの人に感謝だ。 誰だろう、きっと上級生だよな、大人っぽかったもん。 そんなことを思いながら席に座ると、まもなく教授が来て講義が始まる。 十分ほど過ぎた頃、誰かが講義室にそろーっと入ってきた。 「今入ってきた君。君の時計は何時を指しているんだ? 」 睨んでいる目と意地悪な言い方。 すごく怖い。 遅刻するくらいなら欠席の方がいいけど、必修科目だからそうもいかない。 今日は本当に助かった、これからは絶対に気をつけないとな、なんて思いながらも、エレベーターの中の出来事が頭から離れない。 いい香りがした。 爽やか…… 柑橘系みたいな、でもはちみつみたいな甘さもあったかな。シャンプーの匂いかな? 柔軟剤かな? それともなにか、コロンとか付けてるのかな? そんな、講義には全く関係ないことばかりを考えて、いつもは長く退屈な講義があっという間に終わってしまっていた。 「春住(はるすみ)くん、入ってくるのギリギリだったね。危なかったね 」 「あ、土屋(つちや)くん、おはよう」 同じ高校出身の土屋くん。 高校の時はそれほど仲良かったわけではないけれど、同じ大学、学部も一緒だと知り、話しをするようになって仲良くなった。 優しくて穏やかな人、土屋くんといるとなんだか、ほんわかする。 「うん、焦ったよ…… 」 エレベーターでの出来事を、土屋くんに話そうとしたけれど…… やっぱりやめようと思った。 なんとなく、あのことは自分の中で大事にしまっておきたい気持ちになった。 満員のエレベーターの中の人たちには、見られていたけど。 「どうしたの? 」 「えっと、さ…… 家を出てからスマホを忘れたことに気付いて戻ったら、電車を一本遅らせちゃったんだ。今度からは余裕をもって出ないとって思ったよ、特に一限目がこの教授の講義の時はね」 って、少し笑ってみせた、本当のことだ。 「そうか、それは大変だったね。スマホがないと、やっぱりだめ? 春住くんは」 スマホを忘れて戻ったことに、土屋くんが少し怪訝そうに訊く。 まぁ…… それは…… 確かにスマホがなくても、誰かとのやり取りとか、頻繁にあるわけじゃないから、まぁ、なくても困らないかもしれないけど…… でも、不安じゃない? のかな? 土屋くんは。 「ちょっ…… ちょっと、不安だったりしない? 」 なんとなく決まりが悪くて、少し目が泳いでしまった。 「んー、僕は忘れたことがないから、ない、とか分かんないんだ」 あ、そうか、そういうことだったのか。 スマホがないと生きていけない、みたいな人間だと思われたわけじゃないんだ。 土屋くんには、そもそもスマホがない状況があり得ないから、そう訊いたのか。 なんだ、考え過ぎちゃったよ、僕。 「バイト先から『今日来れる? 』くらいの連絡しかこないけどさ」 安心して、ちょっと笑顔が大きくなってしまう。 「でも手持ち無沙汰の時とか、スマホいじってると間がもてる気がしない? 」 声まで弾んじゃった。 「あー、それは分かる」 「でしょ? 」 にっこりと笑ってくれた土屋くんに、胸を撫で下ろして僕が応えた。 「春住くん、次はなに?」 「あ、地方政治。土屋くんは? 」 「簿記論。お昼、一緒にできる? 」 「もちろん!授業が終わったら…… どこの学食にする? 」 「三号棟食堂、でいい? 」 「うん、授業が終わったら行くね」 この春から大学生。 内気で人見知りをしてしまうから、他の人には話しかけられなくて、こうして昼食を誘ってくれる土屋くんが嬉しい。 それに、土屋くんには気を遣わないで過ごせる。それがなによりで、またも笑顔で応えた。 大型連休も終わり、ほんの少し大学生活も慣れてきた頃。 学内に三ヶ所ある学食も制覇できた。土屋くんが一緒だったから。 学食のシステムなんかにも少し慣れてきたから、僕が先に学食に着いてすでに食べ始めていることだってあるんだ。 …… 土屋くん、遅いな。 入り口の方をちらちらとみながら、カレーライスを口に運んでいる時、ふと目に入った後ろ姿。 入り口近くの一人掛けのカウンターで、食事をしている学生。あの服装にあの後ろ姿、間違いない、あの人だ。僕の代わりにエレベーターを降りてくれた人だ! お礼を言った方がいいよね? でもなんて? ── 今朝はありがとうございました って? 覚えてなかったら? たまたま本当に降りるだけだったら? …… どうしよう。 でも本当に助かったんだ、あの人がどうであったとしても、お礼は伝えたい。 …… でも、勇気が出ないな。 あの人を見つけてドクンとして、トクトクした胸が、バクバクし始めてしまう。 目を泳がせてただただ、カレーのルーとご飯を混ぜている僕。 「ごめんね、遅くなっちゃった。春住くんは全部混ぜて食べる派なんだ」 土屋くんが現れ、僕が食べていたカレーを見ながら笑いかける。見ると白米の部分がない。 「あ、そ、その時によるかな? 」 あの人へどうしようか考えながらだったから、ちょっと顔が引きつってしまった。 「料理とってくるね」 リュックを僕の席の前に置き、料理の並ぶカウンターへ向かった土屋くん。 「うん」 土屋くんがテーブルから離れるとすぐに、あの人の方へ視線を向けた。 もう、いなくなってしまっていて、お礼を言えなかったことに、すごくすごく後悔した。 それからは、大学の中でいつもあの人を探すようになった。 こんなに何かに後悔したのは初めてで、自分の意気地のなさが悔しかった。 目だけできょろきょろと周りを見回し、もう一度あの人を見かけた時はびっくりしたんだ。 だって、同じ講義室で見つけたから。 同じ一年生だったことに驚きで、大きくドクンと胸が打って…… 今度こそ勇気を出すんだと、あの人の背中を見つめて、自分を奮い立たせた。
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