ずっとこのまま

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ずっとこのまま

三限、四限の授業なんてまるで頭に入らない。 ふわふわとした気持ちで、ずっと色んなことを思い返していた。 高嶋さん…… 由汰加さん。 久紫さんが高校の時に付き合っていたという先輩に会って、「久紫をよろしく」とか言われて、まだ忘れられないんだろうと思って僕は泣いてしまって、編入試験がどうとか言ってて、肩を抱かれて、『依杜』って呼ばれて、僕の口元についたカレーを指で掬って舐めて…… 怒涛の出来事、今年の十大ニュースが今日一日で埋め尽くされちゃいそう。 そんなあれこれを、ぽわんとした頭で思い返している。 そして、今日、久紫さんと一緒に帰る。 あ、夏休み前にレポート手伝ってもらった時も一緒に帰ったんだった。 でもあれは僕がお礼をしたかったから。 今日は、久紫さんから 「待ってて!」 って、言われた、大きな声で。 待ってないと。 時計台といえば、大学の正門を入ってすぐにある、塔のてっぺんに大きな文字盤の時計台。 ここを待ち合わせ場所にしている人は多くて、その人だかりにまじって久紫さんを待つんだ。 四限が終わると、僕は一番乗りで講義室を飛び出した。 同じ四限までの授業だから、久紫さんの方が早く着いているかもしれない。 でもだめ、「待ってて」って言われたんだもん、僕が待ってるんだ。 久紫さんより絶対に早く着いてみせる! 運動は苦手な僕だけど、懸命に走って時計台を目指した。 話があるって、なんだろう。 嬉しかったことをいっぱい思い出して、にやにやしながら走っていたその時、ふと、思う。 もしかして、由汰加さんの相談だったりして。 ぴたりと足が止まった。 そう思ったら、もう、そうとしか思えなくなって、どうしようかと俯いた。 付き合ってたって言ってた。 てことは、別れたってことだよね。 それでも由汰加さんが忘れられなくて、僕に相談したいのかな? やだよ、そんな相談、とても乗れないよ。 どうしよう…… どうしよう…… 。 もうすぐ時計台に着く、というところで立ち止まって背負っているリュックの肩紐をギュッと握った。 「どうした? 」 背後から聞こえてきたのは久紫さんの声だと気付く。 あ、どうしよう。 ちらりと振り向いて、「う、うん」とだけ返事をした。 「時計台に着く前に合流したね」 「…… うん」 「バイトは? 時間、大丈夫? 」 「今日は、ない、から…… 大、大丈夫」 「そっか…… えっと、とりあえず大学出るか」 「う、うん」 こんなふうにして大学の外を歩くのは初めてだし、なんの話なんだろうって気が気じゃないし、由汰加さんのことがなかったら、もっとワクワクして歩いてたんだろうな、って思うと残念。 でも、由汰加さんのことがなかったら今、こうしてないか。 しょんぼりした。 由汰加さん、なんか爽やかを絵に描いたような人だったな。 付き合ってた、って久紫さんは言ってたけど、そんなわだかまりもない感じで久紫さんに声をかけてたな。 久しぶりって、どのくらいぶりなんだろう。でも、最近は会ってなかったってことだよね。 なんて思いながら歩いていたから、 「…… でいい? 」 「え? あ、ごめん、なに? 」 久紫さんの話しを聞き逃してしまう。 「カラオケでいい? 」 「カラオケ? 」 …… 行ったことがない。 あ、一回だけある。中学生や高校生の時、クラスの子たちなんかは行ってたみたいだけど、僕は中学校の卒業後に、皆んなで集まるからと呼ばれて行っただけ。 「僕、歌える歌なんかないよ」 その時だって、クラスメイトだった子にカスタネットを渡されて、ただ叩いていただけだもん。 眉を八時二十分にしてそう言うと、クスッと笑われる。 それにどうして突然カラオケ屋さん、なんてなるの? 話しがあるんじゃなかったの? 由汰加さんの相談だったら、歌えないカラオケをしていた方が全然いいけど。 「歌うんじゃないよ、個室だし、ゆっくり話せるから」 笑みを浮かべながら久紫さんが言う。 個室って言葉にちょっと反応しちゃったけど、ファストフードとかファミレスなんかだと騒がしいのかな? ゆっくりと話しか…… 色々思うところはあるけれど、「うん」って頷いた。 「寒くない? 」 日中は暑いくらいだった変な陽気だったのに、日が落ち始めると一気に気温が下がってきて、ブルゾンの襟元を押さえながら久紫さんが僕に訊く。 「うん、大丈夫」 って答えたけど、やっぱりちょっと寒さを感じる。僕もパーカーの首元を押さえた。 「寒い? 」 「ううん、大丈夫」 僕が首元を押さえたから、もう一度訊いた久紫さん。 優しいんだから。 「依杜が帰る駅と反対方向になっちゃうけど、いい? 」 「いいよ」 いいよ、久紫さんといられるなら、どこまでだって行くよ。 それに『依杜』って呼ばれていることが、もうすっかり自然になってる。 由汰加さんの話しはとても気が重いけど…… って、すっかり由汰加さんの相談をされるものだと決めつけている僕。 だって、きっとそうだと思うもの。 触れるほどの距離で二人並んで歩いて、チラッチラッと久紫さんのネックレスに視線が行ってしまう。 真横に並んで歩いてるからか、ブルゾンの襟に隠れているのか、ネックレスが見えない。 ふわっと香る久紫さんの匂い、最初に会ったエレベーターのことを思いだして胸がキュッとなる。 柑橘系なのに、ほんのり甘い香り。 このまま時間が止まってしまえばいいのにって、ずっとこのまま歩き続けていたいって、そう思いながら、とくとくする胸と、しゅんとする胸が互いに譲らないまま、切ないほどに大好きな久紫さんの隣りを歩いた。
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