久紫さんの香り

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久紫さんの香り

聞きたいことはたくさんある。 由汰加さんのことや、由汰加さんが言っていた編入試験のこととか、たくさんある。 そんないろんなこと、久紫さんが話そうと思ってくれた時に聞こうって、そう思った。 ゆるく手を繋いで駅に向かって歩いている、今は、感じたことのない幸せを噛みしめていたい。 久紫さんの家の最寄り駅はまだ先で、僕とは反対方向。 ホームには人がいたから、さすがに繋いでいた手は離した。 「あ」 思わず声に出してしまうと、久紫さんが不思議そうに僕を見る。 久紫さんの首にネックレスが無いことに気付く。いつから無かったんだろう。 僕の視線が首元に行っていたからか、久紫さんがネックレスのことだと気付いた。 「…… 外した」 「いつ? 」 「三限目が始まる前」 ── 話しがあるから帰り待ってて って、僕に大きな声で言ったあとだと分かる。 嬉しかった。 口元が大きく綻んでしまうのを、俯いて隠した。 「俺は依杜が好きだから」 また言ってもらえて、顔が真っ赤になった。 キョロキョロと周りを見回し、 「そ、そんなこと、こ、こんなところで」 言われて嬉しかったけど、誰かに聞こえちゃうよと思って焦るし、やっぱり、久紫さんじゃないみたいな久紫さんに戸惑った。 こんなに大胆なの? って、嬉しい戸惑い。 誰かとこんなふうに時間を過ごすのだって初めてで、トクトクとした胸が踊り出す。 その時、僕が乗る電車がホームに滑り込んできて、胸がざわざわと落ち着かなくなった。 「また明日」 そう言って、久紫さんがそっと僕の手を握るから、思わず僕も久紫さんの手を握ってしまう。 「久紫さんの電車がくるまで、僕、待ってる」 この電車には乗らないで、久紫さんが帰るのを見送りたいと思った。 「…… だめだよ」 「どうして? 」 「…… 帰れなくなるから、俺」 きゅんっ、と胸が音を立てた。それでも、そんな言うことなんかきけない。 「もう少し一緒にいたい」 久紫さんの手を握って、そんなことを言ってしまう。 そんなこと言えるんだ僕、って、恋ってすごいね、って、人ごとのように感心した。 「もう少し、カラオケボックスでキスしてればよかったな」 ボソッとそんなことを言うから、また顔を真っ赤にして周りを見回した。 「や、やだなぁ久紫さんっ、そ、そんなこと言わないでよっ」 「したくなかった? 」 真面目な顔をして僕に訊く。 え? したくなかったわけないじゃない、でも、そんなの恥ずかしいよ。 もじもじとしていると、 「したくなかった? 」 もう一度訊かれる。 久紫さんの目には、僕しか映ってないみたいで、それはそれでたまらなく幸せ。 「………… ったよ」 「え? 」 「していたかったよ」 小声で答えると、顔中を綻ばせて嬉しそうに僕の頬を撫でた久紫さん。 思いもかけず、行動が大胆な久紫さんにびっくりだけど、こんな満面の笑みの久紫さんを初めて見て、とっても胸が温かくなった。 結局、二人して三本も電車を見送って、最後は僕が根負けをして電車に乗った。 閉まるドアにへばりついて、小さく手をあげる久紫さんを僕は泣きそうになって見てしまったから、とても心配そうにしていた久紫さん。 心配かけてしまった。 気になって、ひどく胸が落ち着かない。 すぐにブブッとスマホの振動がして、急いで背中のリュックに手を突っ込み取り出した。 久紫さんかも。 『明日何限から? 』 やっぱり久紫さんから。 カラオケ屋さんで、久紫さんと連絡先を交換した。 早速メールをもらって思い切り顔がにやける。 『一限からだよ』 『じゃあ朝、駅で待ってる。何時頃来てる? 』 『八時半頃』 『じゃ、八時半に改札出たとこで』 『うん、了解』 はぁ〜だめだぁ〜顔がニヤニヤしちゃってるよ〜。 周りの人の目が気になったけれど、それでも到底おさまらないニヤニヤ。 さっきまで、別れを惜しんで切なかったのに全くもう、って自分に呆れた。 そうだ、洗顔料がなくなってたんだった。 思い出して、駅前の大きなドラッグストアに寄った。 いつも買っている洗顔料を手に取り、何気なく視線を奥に向けると衣料用洗剤とか柔軟剤とかが置いてあることに気付いた。 ドラッグストアに来て買うものと言ったら、洗顔料とかシャンプー、コンディショナー。 アルバイトを始めてからは、気に入ったのを自分で買っている。 そうだ、シャンプーもなくなりそうだった。買っておこうと手に取り、また奥に視線が行った。 衣料用洗剤なんてみたことないけど、久紫さんのあの香り、洗剤か柔軟剤かな? と思い奥に進む。 ひとつひとつサンプルの匂いを嗅いで、嗅ぎすぎたかな? って、ちょっと気持ち悪くなってきた時、これだって、分かった。 『シトラスハニーの香り』って、柔軟剤? に書いてある。 そうだよ、シトラスとハニーだよ、って合点がいってなんだかすごく嬉しかった。 これだよ、これだよ、って、サンプルをプシュプシュ押して匂いを嗅いだ。 買っちゃおう、お母さんにこれ使ってってお願いしようと思って、値段を見ると¥1280。 どうなの? これって…… 相場が分からない。 うちで使ってるのってどれだろう? 気にしたことないから分からなかったけど、見たことあるものが目に留まった。あ、これだ、洗濯機のところに置いてあるやつを見つける。 ¥498? しかも広告の品になってる、量だってたいして変わらないのに。 パッケージも、久紫さんと同じ匂いがする柔軟剤は全然違う。久紫さんの方がとってもオシャレで、見るからに高そう。 …… お金持ちなのかな? 久紫さんち。 こんなの買って帰ったら、あっという間にお母さんに全部使われちゃうな…… でも、同じ匂いにしたい、せめて枕カバーとかだけでも。 「え? なに? 依杜が買ってきてくれたの? こんないいやつ? 」 僕が買ってきた柔軟剤を受け取り、お母さんが目をキラキラさせている。 「タオルと枕カバーとシーツ、これで洗って、お願い」 「シーツは天気の良い日じゃないと洗えないわよ」 なんて言いながらも、嬉しそうにしてるお母さん。 僕だって嬉しい。 久紫さんの香りに包まれて、夜は眠れるんだ…… ちょっと、変? 僕。
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