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久紫さんの家
久紫さんからのメールに返信しないままでいると、立て続けに届いていたメールがぴたりと止まる。
『好きだから』
『依杜が好きだから』
『大好きだから』
の文面が、涙で霞んでしまってよく見えない。
それでも、その文字を画面を、じっと見つめた。
もう何本目になるだろう見送る電車がゆっくりと走り出すと、先頭車両が止まっていた場所から走ってくる人。
「もう…… さがしたよ」
泣きそうに、切ない顔をしている久紫さん。
僕はひどい涙目で見上げてしまう。
瞬きをしたら、またひとつ涙がこぼれた。
「ごめん…… もっと早くに、ちゃんと話さなきゃいけなかった」
「じゅ、授業は? 」
「そんなの、今は依杜の方が何億万倍も大事だ」
「…… 億万って単位はないって、前に久紫さん、言ってたよ」
「そういう、あげ足をとる余裕はあって、安心した」
ふっと小さく笑うと、僕の腕を掴んで椅子から立ち上がらせ、ぎゅっと僕を抱きしめた。
「依杜が好きだから…… 誰よりも依杜が大事だから…… 」
耳元で囁くように、久紫さんがそう言って唇を僕のこめかみに擦りつける。僕はまた涙が込み上げてきてしまって、さっきまでとは違う涙が、ぽろっとこぼれた。
シトラスハニーの香りが僕を包みこみ、途轍もなく安心する。
僕の家の柔軟剤は、早くも元の¥498のものに戻ってしまっている。お母さん、ガンガン使いすぎ。
僕も久紫さんの腰にそろそろと手を伸ばし、抱きつくようにした。
カラオケ屋さんで初めてキスをしてから、それからは何もない。あの時のキスだけ。
たまに、キスされるのかな? って素振りが見えたりしたけど、久紫さんは何もしてこなかった。
ドキドキしたのに、ちょっと残念に思ったりして。
こうして抱きしめられてるのだって初めてで、とくとくと胸が小さく踊っている。
とっくんとっくんと、久紫さんの鼓動が僕の体に伝わり、幸せに思ってまた涙が込みあげてくる。
「由汰加のこと、ちゃんと話したい。…… この前のカラオケ屋でいい? 」
抱きしめていた手を緩めると、右手を僕の左頬に当てて優しく訊く久紫さん。
「うん、どこでもいいよ」
「どこでも? ……… じゃあ…… 」
どこでもいいと答えると、考えるようにして、僕の様子を窺うようにして、
「俺の…… 家でもいい? 」
久紫さんのっ!?
ええっ!?
久紫さんの家っ!?
目が真ん丸になってしまった。
瞬間、悩ましい想像をしてしまった自分が恥ずかしい、顔が真っ赤に染まる。
初めて恋をして、この前初めてのキスをしただけの僕だけど、それなりのことは知識があるし、それなりのことは…… たまにしている。
早く返事をしなくちゃ。普通に、なんでもないように返事をしなくちゃ。
「いっ、いいよっ!」
あ、ちょっと声が大きかったかな?
ドキドキしすぎて、声量のコントロールができなかったし、しかも裏返った。
ぷっ! と吹き出されて、ほんの少しムッとなる。
「な、なんで笑うのっ? 」
「どんだけ可愛いんだよ」
可愛いと言われて、ムッとした胸がキュン、とおさまる。
単純な僕。
「大学の駅、通り越すけどいい? 」
「そ、そんなの…… 」
全然いい。
「カラオケ屋の駅も過ぎるけど」
「だっ!大丈夫だよっ!」
久紫さんの家に行きたい気持ちが、思い切り声に表れてしまう。
久紫さんの、ほんの小さなことだって知りたいのに、家に行けるなんて、そんなこと、嬉しいし夢心地になる。
「ん、じゃあ…… 家に着いたら、由汰加のことをちゃんと話すから」
そうだった。
由汰加さんの話だ、途端に元気がなくなりそうだったけれど、僕を真っ直ぐ見てくれている久紫さんの瞳に、どんな話しでも狼狽えないよ、と、僕も真っ直ぐに久紫さんを見つめた。
メールを返さないで、心配させてごめんなさい、って、心から思った。
さすが ¥1280の柔軟剤を普段使っている家だと思った。
大きい。
めちゃくちゃ大きい、お金持ちだとすぐに分かった。僕の家は普通の、ごくごく平均的な家庭。久紫さんが少し遠くに感じてしまう。
「お、大きいおうちだね」
「…… 父親の事務所も兼ねてるから」
「お父さんの事務所? 」
「ああ、公認会計士」
そういえば、玄関の表札の下にステンレスとアクリルプレートのとってもオシャレな看板があったな、と思い出す。
「公認会計士? あ、もしかして久紫さんも会計士になるの? 」
大学の学科は会計学科だったもんな。
「そのつもり」
「そうか…… もう、将来を決めてるってすごいね」
ニコニコと、さすが久紫さん、なんて思いながらあとを歩いた。
「お邪魔します」
重厚な玄関ドアを久紫さんが開け、続いて入った時に挨拶をした。
「誰もいないよ」
「そうなの? 」
「母親も父親の仕事手伝ってるから、事務所の方にいる」
誰もいないのか…… そっか…… ドキドキする胸が一層強くなる。
二階へあがり、「どうぞ」と言われて入った久紫さんの部屋は、あまり物がなくて、わりと殺風景な感じを受けたけれど、それはそれでお洒落に思えた。
「なんか、大人って感じの部屋だね」
頬を赤く染めて言ってしまう。僕の部屋とは大違いだもの。
乱雑だし、すぐに誰かを部屋に招待なんて絶対にできない。片付けに一日はかかってしまうよ。
そんなふうにしている僕を見て、また、ふふっと笑う。
もう、僕をばかにしてるの? そう思って少し拗ねた顔になると、
「可愛いな」
って、また言う。
さらに顔が赤くなった僕に近づいてくるから、今度こそ…… キス? って思ったけど、思い直したようにトートバッグを机の椅子に置くと、「座りなよ」とローソファーに手かざしした。
「う、うん」
キスされるって思ったのがバレちゃったかな?
気恥ずかしくなって、三人は座れるだろうローソファーに腰をおろした。
「なに飲む? 」
「あ、なんでもいいよ」
「待ってて」
久紫さんが部屋を出て、下へ飲み物を取りに行った。
部屋もいい匂い。
あまり見ちゃいけないかな? とか思いながらも部屋中を見回してしまう。そこには知らない久紫さんがいっぱいいて、僕はとてもわくわくした。
「うち、お茶類しかないんだけど…… 大丈夫? 」
緑茶とルイボスティーとブレンド茶のペットボトルとコップを、ローテーブルに置いてくれる。
「ありがとう、大丈夫だよ」
僕はコーラの印象が強いんだな、お茶だって飲めるよって思って、少し恥ずかしい。
僕が座っているすぐ隣りに久紫さんが腰をおろしたから、ドキッとして心臓がバクバクしだした。
「由汰加のことだけどさ…… 」
そうだった、由汰加さんのことだった。
バクバクした胸が途端におさまって、今度はしゅん、となる。でも、ちゃんと聞かないと…… いつまでもモヤモヤとしてしまうもの。
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