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名前を知る
名前はなんていうんだろう。
気になるのはあの人のことばかりで、お礼を言えたのにあれからも無意識に探している僕。
あの授業で一緒だったってことは、同じ経済学部ってことだよね。一年生のうちは他学部履修はできないもの。なに学科なんだろう、今までもあったことがあったのかな? 気付かなかっただけで。
ん?
視線を感じて、その方向に目をやると、なんとあの人っ!
目が合ってしまってドックンッ!って、それは大きく心臓が打った。
でもすぐに逸らされて、たちまち去って行くから、思わず後を付いて行ってしまう。
あの人だ、僕を見てたよね、目が合ったもん。絶対僕を見てたよね。
最初、ワクワクとしたけど途端に不安になって足を止めた。
どこか、変だったかな?
シャツがちょっと飛び出してるとか、なんか付いてるとか…… 自分の体中を確認した。
特に変なところはなさそうだ、ふと顔を上げるともうあの人はいなくて、かなりがっかりした。
でも、三号棟食堂に行くと、たまにいることがあって、そして…… たまに目が合うんだ。
というか、目が合いそうな場所に僕が座っているのもあるんだけどね。
いつも入り口近くの一人用のカウンター席に座っていて、そこから食器を返却する動線で視界に入る場所に僕は座るんだ。
目が合うのはほんの一瞬。いつもスッと先に逸らされるけど、今日は僕から逸らしてみようかな、なんて、意味のない訳のわからない駆け引きを試みようとしたけれど、あの人がいるだけでソワソワしちゃって、そんな余裕なかった。
「最近、この席ばっかりだね」
いい加減、土屋くんにツッコまれる。
「そ、そう? だった? 」
気が付かなかったふりをするしかないよね。
お昼を一緒に食べようって約束をすると、大体僕の方が早く食堂に着いているから席を選べるけど、たまに土屋くんの方が早いと違う席に座ってるから、あの人が見れない。
…… 僕、あの人に会えることが楽しみになってる?
でも、土屋くんの方が早くて違う席でも、目が合ったりするんだ。
僕のこと、覚えてくれてて…… 気にしてくれてたり…… しないよね、あまりに自意識過剰な自分に苦笑いをした。
今日はアルバイトの日。
自宅の最寄り駅近くのケーキ屋さん。小さい頃から大好きでよく買いに通っていて、高校生になったとき、
「依杜くん、ここでアルバイトしない? 」
って、オーナーから声を掛けられ、バイトを始めてから大学生になった今も続けている。
はじめ、お客様相手なんて僕には絶対に無理だと思ったけど、これが結構大丈夫で、お客様だと人見知りって関係ないんだなって分かったりした。
小さい頃は『矢野洋菓子店』だったのに、雑誌で取り上げられて人気になってから『パティスリーYANO』って名前に変わったんだ。
人気なのはチーズケーキタルト。ホールもあるけど、ミニサイズでいろんな味を買っていく人が多い。それに普通のケーキもある。
内装も変えて、小さい頃買いに来ていた時はまるで違い、すっかりお洒落なお店になっている。
こんなお洒落なお店でバイトができてるのも、今となってはちょっと自慢。
「依杜くん可愛いから、看板娘ならぬ看板ボーイだね」
なんて言われて、男なのに可愛いって、ちょっとな…… って思ったけど、悪い気はしなかった。
「ケーキご予約のお客様、夕方六時頃にみえるからお渡ししてね」
「デコレーションケーキですね、はい承知しました」
苺のホールケーキが厨房の大きな冷蔵庫の中に入っている。
誰かの誕生日なのかな? 伝票と一緒にケーキに立てるろうそくが置いてあった。
取りにこられたとき、すぐに分かるように名前を確認した。
『結木様』
ケーキが入った箱に貼られた予約票を見る、よし、了解。
「予約していたケーキを取りに来ました。結木です」
「はいっ!お待ちしていました!」
ショーケースを背中にして作業をしていたから、元気な声を出し振り向いて固まった。
「…… あ」
…… あの人だ。
「………… 」
なにも声に出していなかったけれど、向こうも少し驚いた顔をしているのが分かった。
互いに固まり、黙ったまま見つめ合っていたのはどのくらいだっただろう。
「あ、あ…… すみません、今、お持ちしますね!」
小走りで厨房に向かい、冷蔵庫の前に立った。
あの人だ…… 結木さん、っていうのか。トクトクトクトクと胸が速くなり、ちょっと息が苦しくなった。
「お、待たせしました…… こちらでお間違えないですか? 」
ケーキを軽く持ち上げ、確認していただく。
手が震える、恥ずかしい。
彼はこくりと頷き、ショーケースの中のケーキに目をやっている。
なんか、気まずいな…… なんて思ってしまう。
「えっと…… お会計は…… 」
予約だと、先に会計を済ませている人、未会計の人がいるから伝票を確認した。
「まだです」
ぼそっと声がして、驚いた顔をあげてしまった。
なにか喋ると思わなかったから。
「あ、三千二百円です」
「五千円でお願いします」
ぼそぼそっとそう言って、小さく頭を下げた結木…… さん。
「では…… 千八百円のお返しになりますね」
お釣りを渡し、会計カウンターからケーキが入った大きな紙袋を差し出した。
「ありがとうございました」
頭を下げながら様子を窺うと、店を出るところで一旦止まるからドキッとしてしまう。
それでも、そのままやっぱり店を出て行った結木さん。
一気に緊張がとけ、ふぅぅぅぅーっと、やっと息ができた感じになった僕は、背中の壁に体を預けてぐったりとなる。
あ、顔になんか変なの付いてたりしてなかったよね…… 今さら鏡を見ても遅いけどさ。
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