名前を知る

1/1
前へ
/30ページ
次へ

名前を知る

名前はなんていうんだろう。 気になるのはあの人のことばかりで、お礼を言えたのにあれからも無意識に探している僕。 あの授業で一緒だったってことは、同じ経済学部ってことだよね。一年生のうちは他学部履修はできないもの。なに学科なんだろう、今までもあったことがあったのかな? 気付かなかっただけで。 ん? 視線を感じて、その方向に目をやると、なんとあの人っ! 目が合ってしまってドックンッ!って、それは大きく心臓が打った。 でもすぐに逸らされて、たちまち去って行くから、思わず後を付いて行ってしまう。 あの人だ、僕を見てたよね、目が合ったもん。絶対僕を見てたよね。 最初、ワクワクとしたけど途端に不安になって足を止めた。 どこか、変だったかな? シャツがちょっと飛び出してるとか、なんか付いてるとか…… 自分の体中を確認した。 特に変なところはなさそうだ、ふと顔を上げるともうあの人はいなくて、かなりがっかりした。 でも、三号棟食堂に行くと、たまにいることがあって、そして…… たまに目が合うんだ。 というか、目が合いそうな場所に僕が座っているのもあるんだけどね。 いつも入り口近くの一人用のカウンター席に座っていて、そこから食器を返却する動線で視界に入る場所に僕は座るんだ。 目が合うのはほんの一瞬。いつもスッと先に逸らされるけど、今日は僕から逸らしてみようかな、なんて、意味のない訳のわからない駆け引きを試みようとしたけれど、あの人がいるだけでソワソワしちゃって、そんな余裕なかった。 「最近、この席ばっかりだね」 いい加減、土屋くんにツッコまれる。 「そ、そう? だった? 」 気が付かなかったふりをするしかないよね。 お昼を一緒に食べようって約束をすると、大体僕の方が早く食堂に着いているから席を選べるけど、たまに土屋くんの方が早いと違う席に座ってるから、あの人が見れない。 …… 僕、あの人に会えることが楽しみになってる? でも、土屋くんの方が早くて違う席でも、目が合ったりするんだ。 僕のこと、覚えてくれてて…… 気にしてくれてたり…… しないよね、あまりに自意識過剰な自分に苦笑いをした。 今日はアルバイトの日。 自宅の最寄り駅近くのケーキ屋さん。小さい頃から大好きでよく買いに通っていて、高校生になったとき、 「依杜(よりと)くん、ここでアルバイトしない? 」 って、オーナーから声を掛けられ、バイトを始めてから大学生になった今も続けている。 はじめ、お客様相手なんて僕には絶対に無理だと思ったけど、これが結構大丈夫で、お客様だと人見知りって関係ないんだなって分かったりした。 小さい頃は『矢野洋菓子店』だったのに、雑誌で取り上げられて人気になってから『パティスリーYANO』って名前に変わったんだ。 人気なのはチーズケーキタルト。ホールもあるけど、ミニサイズでいろんな味を買っていく人が多い。それに普通のケーキもある。 内装も変えて、小さい頃買いに来ていた時はまるで違い、すっかりお洒落なお店になっている。 こんなお洒落なお店でバイトができてるのも、今となってはちょっと自慢。 「依杜くん可愛いから、看板娘ならぬ看板ボーイだね」 なんて言われて、男なのに可愛いって、ちょっとな…… って思ったけど、悪い気はしなかった。 「ケーキご予約のお客様、夕方六時頃にみえるからお渡ししてね」 「デコレーションケーキですね、はい承知しました」 苺のホールケーキが厨房の大きな冷蔵庫の中に入っている。 誰かの誕生日なのかな? 伝票と一緒にケーキに立てるろうそくが置いてあった。 取りにこられたとき、すぐに分かるように名前を確認した。 『結木(ゆうき)様』 ケーキが入った箱に貼られた予約票を見る、よし、了解。 「予約していたケーキを取りに来ました。結木です」 「はいっ!お待ちしていました!」 ショーケースを背中にして作業をしていたから、元気な声を出し振り向いて固まった。 「…… あ」 …… あの人だ。 「………… 」 なにも声に出していなかったけれど、向こうも少し驚いた顔をしているのが分かった。 互いに固まり、黙ったまま見つめ合っていたのはどのくらいだっただろう。 「あ、あ…… すみません、今、お持ちしますね!」 小走りで厨房に向かい、冷蔵庫の前に立った。 あの人だ…… 結木さん、っていうのか。トクトクトクトクと胸が速くなり、ちょっと息が苦しくなった。 「お、待たせしました…… こちらでお間違えないですか? 」 ケーキを軽く持ち上げ、確認していただく。 手が震える、恥ずかしい。 彼はこくりと頷き、ショーケースの中のケーキに目をやっている。 なんか、気まずいな…… なんて思ってしまう。 「えっと…… お会計は…… 」 予約だと、先に会計を済ませている人、未会計の人がいるから伝票を確認した。 「まだです」 ぼそっと声がして、驚いた顔をあげてしまった。 なにか喋ると思わなかったから。 「あ、三千二百円です」 「五千円でお願いします」 ぼそぼそっとそう言って、小さく頭を下げた結木…… さん。 「では…… 千八百円のお返しになりますね」 お釣りを渡し、会計カウンターからケーキが入った大きな紙袋を差し出した。 「ありがとうございました」 頭を下げながら様子を窺うと、店を出るところで一旦止まるからドキッとしてしまう。 それでも、そのままやっぱり店を出て行った結木さん。 一気に緊張がとけ、ふぅぅぅぅーっと、やっと息ができた感じになった僕は、背中の壁に体を預けてぐったりとなる。 あ、顔になんか変なの付いてたりしてなかったよね…… 今さら鏡を見ても遅いけどさ。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1140人が本棚に入れています
本棚に追加