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今までで、一番長い
駅の近くと言っても、この店は通り一本入っているから、「あ、ケーキ屋さんがある」ってだけで来る店じゃないと思うんだ。
人気が出てからは遠方から来店してくれるお客様もいるけど、予約するって、元々この店を知ってたってことだよね。
この辺に住んでる、とかじゃないよね。
だったら何度か顔を合わせていても不思議じゃないし。
ホールケーキだったし、家族が予約して取りに来ただけの可能性の方が高いだろうけど、それにしてもすごい偶然だったな。
今でもまだドキドキしてる。
結木さん…… 結木、なんていうんだろう。
次は、この前結木さんと一緒になった講義だ。
昨夜からそわそわしてるんだ、僕。
少し近くに座ってみよう、なんて思ったりして。
話しかけることができたら、話しかけてみようかな、なんて…… きっと無理だろうけど。
時間ギリギリに行って、結木さんを見つけて、そして近くに座る作戦。
…… あれ? いないな…… 。今日は休みかな。
仕方ない、一番後ろの席の真ん中あたりの通路側に座って教材を机に出していると、通路を挟んだ隣の長机、厳密に言えば一つ空けて座ったのはなんと結木さん。
結木さんだと分かって驚き、一瞬見ただけですぐに正面に顔を向けた。でも全神経は結木さんの方へ向いていて、またも心臓の鼓動が速くなる。
僕から近付こうと思っていたから、結木さんが近くにきてかなりの動揺…… とは言っても、別に僕の近くに来たわけではないと思うけど。
一生懸命講義を聴いているふりをしているけど、全然身に入ってない。
だって、視界のギリギリ片隅に結木さんが見えるんだ。
結木さんを見つけたら近くに座ろうと思ってたくせに、お腹が鳴ったらどうしよう、とか、今になってそんなことに困った。
「はい、ではこれで授業を終わります」
ふぅぅ…… なんだか、めちゃくちゃ疲れたな。
話しかけるなんて、きっとどころか絶対に無理だよ。
ん?
視線を感じてなにも考えずに横を見た。
結木さんが、じっと僕を見てる!
なんで? なんでかな?
またすぐに顔を正面に戻し、吹き出てくる汗を感じた。
リュックに教科書やらノートやらをしまう手が震えちゃって、バタバタと音を立ててしまう。
なにか言った方がいいのかな?
── 先日はケーキを買っていただき、ありがとうございました
とか…… でも僕、ただのバイトだしな。
そんなこと言ったら、なんか生意気だよね。
視線を感じたままでは、なんだか講義室を出ることができない。
そうだ、ちょっとスマホをいじってるふりをして、結木さんが講義室を出て行くのを待とう。
リュックのポケットからスマホを取り出し、なんの新着もないメールなんかを開けてみた。
「…… 春住くん、って読むの? 」
え?
突然の声にキョトンとした顔になった。
「あっ…… 」
トートバッグを肩から下げて、通路に立ったまま結木さんが僕に訊いてきた。
「あ、は、はい…… あのっ…… 」
「ケーキ屋さんのレシート、春住って、『はるすみ』でいいのかな?って思いながら見てたんだ」
今までで一番長い言葉を聞いた。
ぼそぼそとした声しか聞いてなかったけど、よく聴くと落ち着き抑えのきいた少しハスキーな声、見た感じも大人っぽいのに、話すと余計に大人に感じた。
「は、はい…… 」
「綺麗な名前だな」
えっ!?
でも無表情。
それでも、すごくトクトク、ドキドキバクバク…… ありとあらゆる形で鼓動が跳ねる。
「あのお店のケーキ、美味しいよね」
「矢野…… パティスリーYANOは前から知ってるんですか? 」
色々と驚いてしまって、昔のお店の名前『矢野洋菓子店』って言いそうになって慌てて言い直す。
頑張った、僕は頑張って結木さんと話しを続けた。
「ああ…… 通ってた高校があの駅だったから、帰りに寄ってたまに買ってた」
えっ!? 一度も会ったことないよね…… それとも気付かなかったのかな? いや、こんな綺麗な人、気付かないはずがない。
「僕、高校の時からあそこでバイトしてるんです。会ってたのかな? 」
「いや、会ってないと思う」
あ、はっきり言い切った……
まぁ、週に二、三日だったからな…… それも土日含めてだから、学校の帰りなら平日だよね、会ってないか。
と、いうか。
「えっ!? あの駅利用の高校って、東高? あの、めちゃくちゃ偏差値の高い男子校…… 」
なんでこの大学に? って思った。
東高は、塾や予備校なんかに『〇〇大学◯名合格!』なんてトップの方に書かれる大学ばかりに行く人たちが通う高校。
この大学は、そんな東校の人が来るような大学じゃないから…… けど、それは訊いちゃいけないって、さすがに思った。
「…… あ、まぁ…… 」
やだ、まずいこと言っちゃったよね僕…… せっかく会話が弾んできた感じなのに…… 結木くんの表情は変わらないけど。
「春住くん」
土屋くんに声を掛けられて、それに気付いた結木さんは、なにも言わずに講義室を去って行った。
かなり、がっかりとした僕。
「…… 今の、結木くんだよね」
「知ってるの? 土屋くん」
「うん、同じ会計学科で授業がよく一緒になるから」
会計学科なんだ、学部はやっぱり一緒だ、それだけで嬉しかった。
「結木くんが誰かと話してるの初めて見たからさ、廊下にいたけど驚いて入ってきちゃったよ」
「…… そうなの? 」
「うん、彼、カッコいいじゃん? 入学当初はたくさんの人が話しかけてたけど、頷いたり首を横に振るだけで何も話さないから、そのうち皆んな、結木くんを遠巻きに見るようになったんだよ」
確かに、口数の少ない人なんだろうとは思っていたけど、会話をすることがそんなに珍しいことなのか。
でも、結木さんから話しかけてくれたんだよ、だとしたら、すごくすごく嬉しいことだよねって、そう思って少し…… ううん、かなり胸が弾んだ。
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