今はもう少し

1/1
前へ
/30ページ
次へ

今はもう少し

「ありがとう。いつもの席にいてくれて」 授業が終わった結木さんが三号棟食堂に来ると、ほんの少し嬉しそうな顔を見せてくれる。 よかった。 結木さんの席をキープしておいて。 「…… あれ? ご飯は? 」 結木さんの席を取っておかないと、と思っていたから、ずっと席に座って動かないでいた。 「あ、うん、僕も今、来たばかりなんだ」 でも、そう言って噓を吐いた。 三十分も前から来て席を取っておいた、なんて恥ずかしいし、それにまだ混雑というほどではなくて、頑張らなくてもこの席はきっと空いていたと思うと、今来たことにしたかった。 「まだそれほど混んでないから…… 荷物置いたままご飯を取りに行っていいよな…… 」 ぼそりぼそりと、食堂の中を見回しながら結木さんが言う。 混雑時の席取りは一応禁止なんだけど、守っている人はほとんどいない。でもそう言った結木さんに、とっても好感が持てた。 会話が弾むわけではないけれど、最近は一生懸命話題を探そうとかしてない。黙ったまま一緒に昼食を食べているだけで、とても居心地が良くて気まずくもない。 結木さんも、そう思ってくれてるのかな? 僕をお昼に誘ってくれたってことは。 「倫理学と法学も取ってたんだ」 話していて、他に二科目同じ授業を取っていたのが分かり、結木さんが言う。 「え? 結木さんも? 」 「ああ、一度聴いてあまり面白くないからいいや、って思ってそれから授業には出てない」 …… 選択科目だから、来年以降にまた別の科目の単位を取得すればいいんだけど、面白くないから、とか、考えたことなかった僕。 取ったから授業受けて単位取って、って単純に思ってただけ。 この大学に通っているのが不思議な結木さん、さすが、頭のいい人は違うんだな、って、ますます見る目が輝いてしまう。 「…… 次から、やっぱ出てみようかな」 ぼそっと言った結木さんの言葉に、思わず顔中が綻んでしまう。 「受けようよっ!結木さんと一緒だと僕も嬉しいもん!」 …… あ、なんてことを言ってしまったんだ。女子中高生みたいなノリになっちゃったよ。 授業だよ、嬉しいとか変じゃん。 それでも結木さんは変な顔をしなくて、くすっと笑ってくれて、「そうだね」って、言ってくれた。 「ケーキ屋さんでバイトって可愛いよね」 「え? 」 途端に顔が赤くなった。 ケーキ屋さんでバイト、っていうことに対してなのに、僕が可愛いって言ってもらえたみたいになっちゃった。 男なのに “ 可愛い ” ってなんだかなって、パティスリーYANOのオーナーに言われた時は思ったのに。 「従業員だから安く買えるし、期限が近いものとか貰えたりして割といいよ。結木さんは、バイトはしてないの? 」 「………… 」 急に黙ってしまって、悪いことを訊いてしまったかと思って焦った。 「結木さん、ってさ…… 」 ぼそっと結木さんが言った。 「? 」 「結木さん、って…… なんかよそよそしくない? 」 え? だって、じゃあなんて? 結木くん、かな。同じ歳だし。 土屋くんも僕のこと「春住くん」だしね確かに結木さんは僕のこと…… あれ? あんまり僕の名前呼んだことないな、って気付く。 「じゃあ、結木…… くん」 あ、なんか、僕がたちまち生意気になった感じがして顔が引きつった。 それでも、違うなぁ、みたいに首を傾げている結木さん。 「久紫(ひさし)でいいよ」 えっ!? そんな! 呼べないよっ!って思いながら顔が真っ赤になって、思わず結木さんの腕を掴んでしまった。 はっ! 「ごめんなさいっ!」 慌てて掴んでしまった手を離すと、くすくすと笑いながら、 「俺は依杜(よりと)って呼んでいい? 」 またしても固まってしまう僕。 依杜? 結木さんが…… えっと、久紫さんが…… 久紫? 無理だよ、久紫なんて呼べないよ、無理だよ、呼びたいけど。 ひとり、にやにやとしてしまう。 「そろそろね、俺もバイトしなきゃなぁって、思ってはいる」 バイトのことを訊いたのは、だめじゃなかったんだ。急に会話が戻った。 呼び方は? 呼び方はどうすればいいの? そんな疑問を持ちながら、ちょっと顔を覗き込むと、 「ん? 」 って、優しい顔。 「あ、なんでもない…… 」 最初に会った頃とはかなり違って、柔らかくて優しい顔。 でもこんな顔は他の人には見せないのを僕は知っている。 自分だけ特別みたいで、すごく嬉しくて浮かれた。 その時、結木さん…… ううん、久紫さんのプレートネックレスが光り、視線を奪われた。 僕の視線に気付いたような久紫さんが、それでも気付かないふりをしてネックレスを握って隠した仕草に、浮かれて空まで飛びそうな僕の胸が、すとんと元の位置に戻ってしまう。 神様が僕に言い聞かせて、釘を刺してくれているんだ。 これ以上久紫さんを好きにならないようにって。 わかってるよ。 そんなのは、わかってる。 でも今はもう少し、とくとくした胸を頭の上くらいで、踊らせておいてほしい、なんて願ってしまう。 もうすぐ梅雨も明ける頃、太陽が張り切りだしている。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1140人が本棚に入れています
本棚に追加