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今はもう少し
「ありがとう。いつもの席にいてくれて」
授業が終わった結木さんが三号棟食堂に来ると、ほんの少し嬉しそうな顔を見せてくれる。
よかった。
結木さんの席をキープしておいて。
「…… あれ? ご飯は? 」
結木さんの席を取っておかないと、と思っていたから、ずっと席に座って動かないでいた。
「あ、うん、僕も今、来たばかりなんだ」
でも、そう言って噓を吐いた。
三十分も前から来て席を取っておいた、なんて恥ずかしいし、それにまだ混雑というほどではなくて、頑張らなくてもこの席はきっと空いていたと思うと、今来たことにしたかった。
「まだそれほど混んでないから…… 荷物置いたままご飯を取りに行っていいよな…… 」
ぼそりぼそりと、食堂の中を見回しながら結木さんが言う。
混雑時の席取りは一応禁止なんだけど、守っている人はほとんどいない。でもそう言った結木さんに、とっても好感が持てた。
会話が弾むわけではないけれど、最近は一生懸命話題を探そうとかしてない。黙ったまま一緒に昼食を食べているだけで、とても居心地が良くて気まずくもない。
結木さんも、そう思ってくれてるのかな? 僕をお昼に誘ってくれたってことは。
「倫理学と法学も取ってたんだ」
話していて、他に二科目同じ授業を取っていたのが分かり、結木さんが言う。
「え? 結木さんも? 」
「ああ、一度聴いてあまり面白くないからいいや、って思ってそれから授業には出てない」
…… 選択科目だから、来年以降にまた別の科目の単位を取得すればいいんだけど、面白くないから、とか、考えたことなかった僕。
取ったから授業受けて単位取って、って単純に思ってただけ。
この大学に通っているのが不思議な結木さん、さすが、頭のいい人は違うんだな、って、ますます見る目が輝いてしまう。
「…… 次から、やっぱ出てみようかな」
ぼそっと言った結木さんの言葉に、思わず顔中が綻んでしまう。
「受けようよっ!結木さんと一緒だと僕も嬉しいもん!」
…… あ、なんてことを言ってしまったんだ。女子中高生みたいなノリになっちゃったよ。
授業だよ、嬉しいとか変じゃん。
それでも結木さんは変な顔をしなくて、くすっと笑ってくれて、「そうだね」って、言ってくれた。
「ケーキ屋さんでバイトって可愛いよね」
「え? 」
途端に顔が赤くなった。
ケーキ屋さんでバイト、っていうことに対してなのに、僕が可愛いって言ってもらえたみたいになっちゃった。
男なのに “ 可愛い ” ってなんだかなって、パティスリーYANOのオーナーに言われた時は思ったのに。
「従業員だから安く買えるし、期限が近いものとか貰えたりして割といいよ。結木さんは、バイトはしてないの? 」
「………… 」
急に黙ってしまって、悪いことを訊いてしまったかと思って焦った。
「結木さん、ってさ…… 」
ぼそっと結木さんが言った。
「? 」
「結木さん、って…… なんかよそよそしくない? 」
え? だって、じゃあなんて? 結木くん、かな。同じ歳だし。
土屋くんも僕のこと「春住くん」だしね確かに結木さんは僕のこと…… あれ? あんまり僕の名前呼んだことないな、って気付く。
「じゃあ、結木…… くん」
あ、なんか、僕がたちまち生意気になった感じがして顔が引きつった。
それでも、違うなぁ、みたいに首を傾げている結木さん。
「久紫でいいよ」
えっ!?
そんな! 呼べないよっ!って思いながら顔が真っ赤になって、思わず結木さんの腕を掴んでしまった。
はっ!
「ごめんなさいっ!」
慌てて掴んでしまった手を離すと、くすくすと笑いながら、
「俺は依杜って呼んでいい? 」
またしても固まってしまう僕。
依杜? 結木さんが…… えっと、久紫さんが…… 久紫? 無理だよ、久紫なんて呼べないよ、無理だよ、呼びたいけど。
ひとり、にやにやとしてしまう。
「そろそろね、俺もバイトしなきゃなぁって、思ってはいる」
バイトのことを訊いたのは、だめじゃなかったんだ。急に会話が戻った。
呼び方は? 呼び方はどうすればいいの?
そんな疑問を持ちながら、ちょっと顔を覗き込むと、
「ん? 」
って、優しい顔。
「あ、なんでもない…… 」
最初に会った頃とはかなり違って、柔らかくて優しい顔。
でもこんな顔は他の人には見せないのを僕は知っている。
自分だけ特別みたいで、すごく嬉しくて浮かれた。
その時、結木さん…… ううん、久紫さんのプレートネックレスが光り、視線を奪われた。
僕の視線に気付いたような久紫さんが、それでも気付かないふりをしてネックレスを握って隠した仕草に、浮かれて空まで飛びそうな僕の胸が、すとんと元の位置に戻ってしまう。
神様が僕に言い聞かせて、釘を刺してくれているんだ。
これ以上久紫さんを好きにならないようにって。
わかってるよ。
そんなのは、わかってる。
でも今はもう少し、とくとくした胸を頭の上くらいで、踊らせておいてほしい、なんて願ってしまう。
もうすぐ梅雨も明ける頃、太陽が張り切りだしている。
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