1048人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ
忘れられない後ろ姿
ブ────── ッ!
講義に遅刻する、走り寄り慌ててエレベーターに乗り込んだ途端、ブザーが鳴った。
あ……
重量オーバー? 僕?
降りなきゃ…… だよね。
どうしよう、次の講義はめちゃくちゃ怖い教授なんだよな…… 遅れて講義室に入ってくる学生を、思い切り睨みつけて何かひと言絶対に言うんだ。あんなの耐えられない。
講義室は七階だもん、階段で上って行ったら間に合わないよな……
一瞬でそんなことを思ったけれど、周りの視線が痛い。
すみません、とばかりに頭を下げてエレベーターを降りようとした時、腕を掴まれて引き戻された。
え?
少し強い力だったから、腕を掴んだ人の胸板に触れてしまう。
厚い胸板で、ふわっと、ほのかにいい香りが鼻の奥をくすぐった。
そして、きらりと光るプレートネックレスが目に入った。
「俺、降りるから」
ひと言だけそう言って、その人がエレベーターから降りると、誰かが「閉」のボタンを押したようで、扉が閉まり始めた。
「あ…… 」
咄嗟のことでお礼も言えなかった。
その人が去っていく後ろ姿を見つめていた視界が、エレベーターの扉で覆いつくされてしまう。
厚い胸板とはかけ離れているような、すらりとした背格好、扉が閉まる寸前にそんなことを思った。
ふぅー、間に合った。よかった。
あの人に感謝だ。
誰だろう、きっと上級生だよな、大人っぽかったもん。
そんなことを思いながら席に座ると、まもなく教授が来て講義が始まる。
十分ほど過ぎた頃、誰かが講義室にそろーっと入ってきた。
「今入ってきた君。君の時計は何時を指しているんだ? 」
睨んでいる目と意地悪な言い方。
すごく怖い。
遅刻するくらいなら欠席の方がいいけど、必修科目だからそうもいかない。
今日は本当に助かった、これからは絶対に気をつけないとな、なんて思いながらも、エレベーターの中の出来事が頭から離れない。
いい香りがした。
爽やか…… 柑橘系みたいな、でもはちみつみたいな甘さもあったかな。シャンプーの匂いかな? 柔軟剤かな? それともなにか、コロンとか付けてるのかな?
そんな、講義には全く関係ないことばかりを考えて、いつもは長く退屈な講義があっという間に終わってしまっていた。
「春住くん、入ってくるのギリギリだったね。危なかったね 」
「あ、土屋くん、おはよう」
同じ高校出身の土屋くん。
高校の時はそれほど仲良かったわけではないけれど、同じ大学、学部も一緒だと知り、話しをするようになって仲良くなった。
優しくて穏やかな人、土屋くんといるとなんだか、ほんわかする。
「うん、焦ったよ…… 」
エレベーターでの出来事を、土屋くんに話そうとしたけれど…… やっぱりやめようと思った。
なんとなく、あのことは自分の中で大事にしまっておきたい気持ちになった。
満員のエレベーターの中の人たちには、見られていたけど。
「どうしたの? 」
「えっと、さ…… 家を出てからスマホを忘れたことに気付いて戻ったら、電車を一本遅らせちゃったんだ。今度からは余裕をもって出ないとって思ったよ、特に一限目がこの教授の講義の時はね」
って、少し笑ってみせた、本当のことだ。
「そうか、それは大変だったね。スマホがないと、やっぱりだめ? 春住くんは」
スマホを忘れて戻ったことに、土屋くんが少し怪訝そうに訊く。
まぁ…… それは……
確かにスマホがなくても、誰かとのやり取りとか、頻繁にあるわけじゃないから、まぁ、なくても困らないかもしれないけど…… でも、不安じゃない? のかな? 土屋くんは。
「ちょっ…… ちょっと、不安だったりしない? 」
なんとなく決まりが悪くて、少し目が泳いでしまった。
「んー、僕は忘れたことがないから、ない、とか分かんないんだ」
あ、そうか、そういうことだったのか。
スマホがないと生きていけない、みたいな人間だと思われたわけじゃないんだ。
土屋くんには、そもそもスマホがない状況があり得ないから、そう訊いたのか。
なんだ、考え過ぎちゃったよ、僕。
「バイト先から『今日来れる? 』くらいの連絡しかこないけどさ」
安心して、ちょっと笑顔が大きくなってしまう。
「でも手持ち無沙汰の時とか、スマホいじってると間がもてる気がしない? 」
声まで弾んじゃった。
「あー、それは分かる」
「でしょ? 」
にっこりと笑ってくれた土屋くんに、胸を撫で下ろして僕が応えた。
「春住くん、次はなに?」
「あ、地方政治。土屋くんは? 」
「簿記論。お昼、一緒にできる? 」
「もちろん!授業が終わったら…… どこの学食にする? 」
「三号棟食堂、でいい? 」
「うん、授業が終わったら行くね」
この春から大学生。
内気で人見知りをしてしまうから、他の人には話しかけられなくて、こうして昼食を誘ってくれる土屋くんが嬉しい。
それに、土屋くんには気を遣わないで過ごせる。それがなによりで、またも笑顔で応えた。
大型連休も終わり、ほんの少し大学生活も慣れてきた頃。
学内に三ヶ所ある学食も制覇できた。土屋くんが一緒だったから。
学食のシステムなんかにも少し慣れてきたから、僕が先に学食に着いてすでに食べ始めていることだってあるんだ。
…… 土屋くん、遅いな。
入り口の方をちらちらとみながら、カレーライスを口に運んでいる時、ふと目に入った後ろ姿。
入り口近くの一人掛けのカウンターで、食事をしている学生。あの服装にあの後ろ姿、間違いない、あの人だ。僕の代わりにエレベーターを降りてくれた人だ!
お礼を言った方がいいよね?
でもなんて?
── 今朝はありがとうございました
って?
覚えてなかったら?
たまたま本当に降りるだけだったら?
…… どうしよう。
でも本当に助かったんだ、あの人がどうであったとしても、お礼は伝えたい。
…… でも、勇気が出ないな。
あの人を見つけてドクンとして、トクトクした胸が、バクバクし始めてしまう。
目を泳がせてただただ、カレーのルーとご飯を混ぜている僕。
「ごめんね、遅くなっちゃった。春住くんは全部混ぜて食べる派なんだ」
土屋くんが現れ、僕が食べていたカレーを見ながら笑いかける。見ると白米の部分がない。
「あ、そ、その時によるかな? 」
あの人へどうしようか考えながらだったから、ちょっと顔が引きつってしまった。
「料理とってくるね」
リュックを僕の席の前に置き、料理の並ぶカウンターへ向かった土屋くん。
「うん」
土屋くんがテーブルから離れるとすぐに、あの人の方へ視線を向けた。
もう、いなくなってしまっていて、お礼を言えなかったことに、すごくすごく後悔した。
それからは、大学の中でいつもあの人を探すようになった。
こんなに何かに後悔したのは初めてで、自分の意気地のなさが悔しかった。
目だけできょろきょろと周りを見回し、もう一度あの人を見かけた時はびっくりしたんだ。
だって、同じ講義室で見つけたから。
同じ一年生だったことに驚きで、大きくドクンと胸が打って…… 今度こそ勇気を出すんだと、あの人の背中を見つめて、自分を奮い立たせた。
最初のコメントを投稿しよう!