サクラは今宵も眠れない

3/3
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ
 そうした日々が続き、いよいよサクラの木が花の服をまとう時期になった。  全身美しく、けれどもやはり誰も来ない。  肌寒い夜のなか、久しぶりに男の影が見えた。  男はベンチに座るや否や、発泡酒をあおった。 「こんな夜は、やっぱり酒だな」  サクラの木は、ため息を吐いた。また騒がしくなるのね。 「聞いてくれ。就職が決まったんだ。もう無理だと思っていたが、なんとかなったよ」  公園にはひとりしかいないというのに、とサクラの木はあきれたが、それでもベンチに身を少し寄せた。 「来月引っ越すんだ。それまでここで乾杯しようぜ」  男は缶を傾け、木の根元に垂らした。  男は太陽のように熱があった。外灯に照らされた顔も、以前より生気がある。   「……おめでとう」  サクラの木はボソッとつぶやく。  男は目尻に涙を浮かべ、鼻をすすった。 「歌うか。なにがいいかな。やっぱり春と言えば桜ソングだよな!」 「桜の歌は一様に散るから嫌いなのだけど……」 「よーし、歌うぞ!」 「ちょっと!」  それから毎夜、男は歌った。  出立前夜も男は歌い、サクラの木も思わず口ずさんでいた。  夜空を見上げる。  昔はこんなふうに仲間のサクラと踊る毎日だった。  ここへきたばかりの頃も、花見客が大勢いてにぎやかだった。  楽しかった。  しかし、サクラの木は公園に来たことを後悔していた。  みんな離れていくから。  どれだけ美しく咲いても、花を振りまいても、みんなみんな、サクラの木をひとりにする。  視線を落とせば、花々が広がっている。   「ずいぶんと散らしたわ」  今年も春が終わる。  男もいなくなる。  当然の摂理だ。  それなのに、サクラの木はムズムズした。 「ふん、あなたのせいよ。あなたが歌うから、わたくしは眠れず、踊ってしまうのだわ!」  男が携帯をかざす。  サクラの木は踊った。  いつもより長く踊り続けた。  ムズムズは嫌い。 「特別にはなむけをくれてやる。……達者でな」  男は携帯をポケットにしまい、透き通る眼差しを向け、笑った。 「ありがとう。そっちも元気で」  サクラの木は驚き、踊りを止めた。 「花のないサクラに心奪われたのは、あれがはじめてだ。ありがとう。忘れないよ」 「……わたくしも忘れない」 「うん。……はあ、いい夜だ」  うるさいと、眠れないと思いながら、誰もいないさみしさを抱いていたサクラの木は、この日、本当の意味でひとりではなくなった。  花見客が来ない春も、誰も訪れない日常も気にならない。内側ではいつも、あの男と歌い踊った記憶がある。  男がいなくなったあと、サクラの木は決めたのだ。  花をまとう春になったら、毎晩踊ること。  それからさらに数年が過ぎると、少しずつ花見客が戻ってきた。  次の年には、隠れスポットだと話題になった。  枝に止まるスズメは、花の蜜をついばんだ。  花見客の老夫婦が風流だと手をたたき、隣にいる女が桜ソングを口ずさめば、酔っ払った若者がギターで演奏をはじめる。  サクラの木は今宵も眠れない。  ただ、踊る。  どこかで生きる男に届くように。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!