母が残してくれたもの

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   胃の中で空気がいっぱいに満たされたような感覚がして、智樹はきゅっと身を縮こませた。マズい。このままじゃ、鳴ってしまう……。智樹は学校の椅子の上でもぞもぞとお尻を動かして、その音が鳴らないように祈った。 「仁和寺にある法師、年寄るまで岩清水を拝まざりければ……」  クラスメイトの誰かが読む古文はまるでお経だ。今は読まれた文の意味をじっくり考える場合ではない。  お腹が、鳴りそうなのだ。  これまでに何度、授業中にお腹が鳴ったかしれない。智樹のお腹が教室中に響き渡るたび、“ハラアキ”なんていうくだらないあだ名で呼ばれてしまう。智樹の苗字は秋葉なので、秋葉の腹が鳴って“ハラアキ”。授業ではろくに先生の話なんて聞かないくせに、人が嫌がることばかり考えるのが中学生の悪い癖だ。  智樹は、あの忌まわしいあだ名を頂戴することを回避するため、もう一度身体をよじって耐えようとした。  そのとき、ブチブチブチ、という嫌な音がして智樹は咄嗟に視線を下の方へと移す。  やってしまった……。  制服のズボンのチャックの部分の布が、縦方向に綺麗に裂けていた。  もともと、一ヶ月前に裂けていた部分を母親が縫い直していたところだ。手縫いだったから、そこまでしっかりと縫えていなかったのかもしれない。  クラスメイト全員の視線が、智樹に注がれる。  智樹のズボンが裂ける音は、思いの外教室の中いっぱいに響いてしまっていた。お腹でもおならでもなく、ズボンが裂ける音だ。しかもみんな、この音を聞くのは二度目なので、何が起こったのか、瞬時に理解できただろう。 「す、すみませんっ」  智樹は顔から火が吹き出そうなほどの羞恥に襲われながら、誰にともなく謝った。前で授業をしていた先生は「大丈夫か?」と聞いてくれたが、智樹の心はとても「大丈夫」とは言えない。スボンそのものが裂けてしまったことより、今この瞬間の恥ずかしさの方が何倍も身に堪えた。  しかし先生としては、これ以上智樹にフォローのしようもなかったようで、「続き、いきましょう」と物語の続きを読むことを促した。 「秋葉、今日は“ハラアキ”じゃなくて“ボロアキ”だったな。また服がボロくなってら」 「あの音はすごかったねー。しかも二回目。とっとと新しいの買えばいいのに」  授業後に、後ろの方の席でヒソヒソと噂話をしている男子の声が聞こえてきた。智樹は教室にいられなくなって、すぐに荷物をまとめて飛び出した。これから給食の時間だっていうのにもったいない。けれど、智樹にとっては大事な一回分のご飯を食べられないこと以上に、クラスメイトから嘲笑されることの方がつらかった。  一目散に教室を飛び出して、下駄箱に向い下靴に履き替える。  もういいや。  どうでもいい。  クラスメイトも、ボロボロの服を着て毎日お腹が空いていることも、どうだっていい。  僕は一生、惨めなままなんだ。  と智樹は泣きそうになりながら、早足で自宅まで帰っていった。
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