「優秀な殺意」

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「優秀な殺意」

 「おい! 早くしろ! いつまで入ってんだ!」  苛立った声と、戸を叩くやかましい音にハッとする。仙石昌良(せんごく まさよし)は、駅構内の個室便器に座ったまま、まどろんでいたことに気づく。  急いでズボンを履き、腕時計に目をやる──乗りたい電車が出発するまで、あと二分。 「くそっ」  ベルトを締め、勢いよく戸を開ける。すると、酒で膨らんだ水風船のような、赤ら顔の中年男が立ちふさがっていた。  仙石はその男を睨みつけ、「死ねよ」と吐き捨てた。  中年男は仙石を睨み返したが、仙石は引かなかった。どころか、そのどてっ腹に体当たりをかました。 「ああ!」  男は弾けるように転がった。かまわず仙石は駆け出す。彼はいつもそうやって、憎しみに身を委ねる。  突風のごとく改札を通り、まわりの人間を吹き飛ばすのも意に介さず、最後の階段を下りていくと、ホームに電車があるのが見えた。  途端、発車ベルが鳴る。  仙石は残りの階段を一気に飛び降りて車内へ駆け込んだ。ほぼ同時にドアが閉まった。  フウと息をつき、ドアに寄りかかる。目を閉じる。落ち着くまでしばらくかかった。  最後に大きく息を吐き、重たいまぶたを開いた。  と、仙石は車内の状態を不審に思った。  ──年寄りばかりじゃないか。  座席は高齢者で隙間なく埋まっていた。よく見ると中年や若者も混じっている。が、明らかにその比率がおかしい。  老人専用車両でもあるまいし、おかしなことがあるものだ……仙石はそう思いながら、なんとなしに隣の車両を覗きにいった。  そこで、おもわず目を見開いた。そちらも高齢者で満席だったのだ。  馬鹿な、と仙石は苦笑し、自分のいる車両を再度見渡した。本当に老人専用なのではないか、その旨がどこかに記載されているのでは……?  しかし、当たり前だが、そんなものは見受けられない。  観察しているうち、乗降扉に打ち付けられた小さな金属プレートが目に入った。そこには車両番号が記載されていた。  〝零号車〟  ……なんだ、これは?  よくよく車内を見れば、あるはずの路線図や広告の類が全くなく、さらにいえば、自分以外のみんな一様に、ぼーっと虚空をながめている。あからさま異常である。  仙石は冷や汗をぬぐって思案した。一体どういうわけか。  とその時、自分がいるのとは反対側の貫通扉が開いた。  息を呑んだ。  向こうの車両からやってきたのは、黒いぼろきれに身を包み、手に大鎌を持った、長身の骸骨だった。  仙石は頭の中をかき回されたような感覚に陥った。……仮装をした変人か? それともストレスによる幻覚?  いや、五感の全てで、そうではないことを感じていた。一瞬にして漂った腐臭が、鎌の重量感とその刃の放つ白光が、不快きわまるギチギチという骨のきしみが、そいつを本物たらしめている。  骸骨は、乗客を見渡しながらゆっくりこちらへ歩んできた。しかと見てみれば、その左眼窩(がんか)からは、なめくじのような視神経だか眼筋だかが宙に伸び、先端についた目玉をうねうねと操作している。怪異としか言いようがない。  が、乗客は誰も気にしていないようだった。目を合わせないようにしているのかとも思ったが、そうではなさそうだ。そもそも、見えていないのではなかろうか?  一歩、また一歩、骸骨はこちらに近づいてくる。仙石はそのたび、皮膚を裂かれるような鋭い悪寒が背に走るのを感じた。たまらず、ゆっくり膝を折り曲げ、座席側面の壁に身をひそめようとした。  不意に、尻ポケットから財布がずり落ち、ぼてっと音をたてて床に落ちた。  仙石は慌てて手を伸ばし、素早く財布を拾った。  その時だった。 「やあ、どうも」  仙石は硬直した。自分へ向けられた骸骨の声だと確かに感じた。ずいぶん気軽に声をかけてくれるじゃないか……ぶるぶると体が震え出す。それを懸命に抑えていると、今度は怒りが湧いてくる。なんなんだ、この状況は!  仙石は怒りを利用して恐怖に逆らった。奴が幽霊だが妖怪だがわからんが、人間堂々としていれば怪異になぞ負けることはない。  思い切って、骸骨のほうを覗き込む。  ぬうっと、巨大な刃が目前をかすめた。いつの間にか骸骨はすぐそこにやってきて、仙石を見下ろしているのだった。  仙石はぎょっとして身を引き、背後のドアに勢いよくぶつかった。一方で、骸骨は悠々とした動きでかがむと、視神経をウネウネ伸ばし、その目玉を仙石の目線に合わせた。 「こんばんは」  骸骨は不気味な低音で、しかし、ほがらかに言った。仙石は目と鼻の先でウネウネと空中散歩する眼球をじっと見つめた。まるで催眠術にかかったように思考は停止する。 「どうしたんだい、仙石くん?」  名前を呼ばれて我に帰った。なぜ名前を、などと聞いてはいられない。おもわず口角を引き上げ、喉を詰まらながら引き笑いをし、ゆっくり立ち上がった。すると骸骨もそれに合わせて立ち上がった。眼球はいまだ目線上である。  直立した仙石は、次に両手を慎重にあげていった。降伏、そして慈悲を求めるポーズ。骸骨の眼球はその動きをしかと捉えているように見えた。  ふと、仙石は骸骨の眼球を握り潰してやろうかと思い立った。きっとハエをつかむよりは簡単だろう。しかし、忌々しい大鎌の存在……こいつに気が引けてしまう。  とそこで、苦しまぎれではあるが考えついた。  仙石は両手をあげたまま、右手の人差し指をすっと突き出し、骸骨の背後を指差した。 「なんだい?」  骸骨が反応する。  が、空中散歩する眼球はいまだに仙石を捉えたままだった。振り向こうとしない。 「馬鹿な真似はよしたまえ」  骸骨はギギギと笑い声らしきものを漏らして言った。 「私の背後には何もない。君はどうしようもできないよ。諦めるんだな」  ギチギチと骨が軋み、骸骨は大鎌を持ち上げ始める。  まずい──そう思うと同時に体が動いた。仙石は隣の車両に向かって駆け出した。 「おや」  骸骨は緩慢で、いとも簡単に仙石をのがした。仙石は近くの貫通扉を手早に開け放ち、連結路を飛び越えるように抜け──  その場で、足を止めた。  移動した車両には、奥のほうで、同じような骸骨が背を向けて待ち受けていたのだった。 「言っただろ?」  二両目の骸骨がこちらを振り返って言った。 「君にはどうしようもできない、と」  ギギギと笑い、そいつは大鎌を引きずりながら近づいてきた。  そこで違和感に気づき、仙石は今飛び越えてきた後ろの車両を振り向いた。  いない。後方の骸骨が、消えている。 「どういうことだ……」  一方で、二両目の骸骨はこちらに近づいてくる。 「なんなんだ、ここは……」  仙石はやっと、逃げられそうにないことを理解した。 〝零号車〟  やはり、二両目にもそう書いてあるのだ。つまりこの電車は、前も後ろもない、ひとつきりの世界なのではなかろうか? 「さて、仙石くん。本題に入ろうじゃないか」 「ほ、本題……?」  仙石は後ずさりした。 「そうだ。落ち着いて話をしよう」  骸骨は笑う。空中散歩する眼球からはなんらかの体液がしたたる。 「君は私の正体について察しがついていることだろう。こんな見た目だからね、誰でもわかる。その想像はまずもって正解だ。ところが、君はひとつ誤解をしているんだ」 「誤解……?」  仙石は震える足でなおも後ずさる。 「俺はそもそも、何もわかってない……何もかも……意味不明だよ……」 「仙石くん」  骸骨は鎌を持ってないほうの手を胸にあてた。 「私は君を殺さない。君みたいな優秀な人間を、殺すわけがない。だから安心してくれ」 「じゃあ……何がしたいんだよ……」 「君には、才能を活かしてもらいたくてね」 「才能……?」 「そうだ」  骸骨は嬉しそうにうなずくと、大鎌をそっと持ち上げた。  仙石はびくりと体を震わせた。いよいよ死を覚悟した。 「大丈夫だよ」  骸骨は優しく言った。  そして、大鎌を仙石に差し出した。 「私の仕事を、引き継いでくれ」  そう言うと、まるで素敵なテーマパークでも紹介するように、大人しく()する人間たちへ、手を向けたのだった。 「さあ、存分にやりたまえ」
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