4.懸念

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「本当に、(しゃく)だよね。なんなら、別れを切り出したときに『飲み会でキスするくらいは浮気じゃない』なんて言われようもんなら……」  引っぱたくくらいはしてしまうだろうか。でもそんな思い切りのよさが自分にあるとは思えなかった。そのくらいの思い切りの良さがあるなら、もっと早く紘と別れている。 「……まあ、いいや。年内には別れとかないといけないし、そのための吉日でも選ぼうかな」  なんて(うそぶ)いて壁から背中を離そうとしたとき……、松隆の体の影が、私の体に覆いかぶさった。  抱きしめられたわけではない。もちろんいわゆる壁ドンでもない。それどころか、体と体は触れ合ってなどいなかった。  ただ、その瞬間の私達の距離は、ある一点を捉えればゼロだった。 「……大丈夫ですよ、先輩」  その一点越しに感じたのは、ほんの少しの焦燥(しょうそう)。きっと、彼はいつもどおり余裕に振舞っていた。それなのに、いつもと違って、それが振る舞いに過ぎないと……ただ余裕そうに見せているに過ぎないのだと、気付いてしまった。  私の背後に手をついていた松隆が、ゆっくりと離れた。 「飲み会でキスするくらいは、浮気じゃないから」  なにが起こったか、理解していた。硬直していた唇が戦慄(わなな)いた。確かめるように唇に触れようとした手も、震えていた。  ドン、と背中が壁にぶつかった。足に力を入れる方法が分からなくて、腰から崩れ落ちてしまいそうだった。  のろのろと、彷徨うような目つきで松隆を見返したとき、髪の奥に隠れた目が、なにかの()に揺れた。 「……え」  辛うじて、蚊の鳴くような声でただ一音だけを発した私を、松隆が静かに見下ろす。 「……なに……」 「なに、って。協力してって、言ったでしょ?」  私にとっての茉莉が、紘にとっての松隆になるように。  だからキスした。それ以上でもそれ以下でもない、そう告げる一言だった。  でも紘がキスしてたのは茉莉じゃなくて沙那じゃん? ──同じことだ。私達の合意の根本は、紘の行為を弾劾(だんがい)することにあるのだから。たとえ相手が茉莉でなく沙那だとしても、「キスくらい」と開き直る可能性がある以上、同じことだ。  それでも、同じじゃない。私がさっき見たキスと、いまのキスは、同じじゃない。 「……だって、これ……」  でもそれは、私だけの事情だ。それを分かっていたから、続く言葉をぐっと飲み込んだ。
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